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「祈るときにも、あなたがたは偽善者のようであってはならない。偽善者たちは、人に見てもらおうと、会堂や大通りの角に立って祈りたがる。はっきり言っておく。彼らは既に報いを受けている。だから、あなたがたが祈るときは、奥まった自分の部屋に入って戸を閉め、隠れたところにおられるあなたの父に祈りなさい。そうすれば、隠れたことを見ておられるあなたの父が報いてくださる。」(マタイによる福音書6章5-6節)   少し前に東京大学入学式の祝辞を上野千鶴子先生がなさってニュースになりました。一部を引用させていただきます。 「あなたたちはがんばれば報われる、と思ってここまで来たはずです。ですが、冒頭で不正入試に触れたとおり、がんばってもそれが公正に報われない社会があなたたちを待っています。そしてがんばったら報われるとあなたがたが思えることそのものがあなたがたの努力の成果ではなく、環境のおかげだったことを忘れないようにしてください。あなたたちが今日「がんばったら報われる」と思えるのは、これまであなたたちの周囲の環境が、あなたたちを励まし、背を押し、手をもって引きあげ、やりとげたことを評価してほめてくれたからこそです。世の中にはがんばっても報われない人、がんばろうにもがんばれない人、がんばりすぎて心と体をこわした人・・・たちがいます。がんばる前から「しょせんおまえなんか」「どうせわたしなんて」とがんばる意欲をくじかれる人たちもいます。」(東大HPよりH31東大入学式祝辞 上野千鶴子氏)   とりわけニュースで紹介されましたのは「がんばったら報われるとあなたがたが思えることそのものが、あなたがたの努力の成果ではなく、環境のおかげだったことを忘れないようにしてください。」と言われたところです。努力し頑張って、その結果として自信を持つことは大切なことですが、傲慢になってはいけません。「努力の成果ではなく、環境のおかげ」という言葉は塩が効いています。旧約聖書のコヘレトの言葉1章18節には「知恵が深まれば悩みも深まり、知識が増せば痛みも増す。」とありまして、受験や進路だけの勉強なら何でもないかもしれませんが、勉強というものが真理とか真実なものの探求を指すときにはそれによって「悩みも深まり」「痛みも増す」ということがあります。事実、上野先生のように勉強や研究を重ねた方々は「公正に報われない社会」など、私たち人間や社会の中にある様々な問題が見え悩みや痛みと戦っておられます。   イザヤ書65章21節に「彼らは家を建てて住み、ぶどうを植えてその実を食べる。彼らが建てたものに他国人が住むことはなく、彼らが植えたものを他国人が食べることもない。」という言葉があります。これは神様が完成される「新しい天と新しい地を創造する」(17節)神の国において成就する言われた約束です。(ちなみにエレミヤ書31:5では「植えた人が植えたその実の初物を味わう。」とあります。)苦労して家を建て、苦労して植物を育てたのですから、当然その人がそこに住み、植えたその人が食べるのは当たり前と思えます。しかし堕落した人間の世界ではこれは決して当たり前のことではないのです。現代は格差社会と言われていますが、こういう理不尽な悩みについてはオリエントの昔から変わっていません。だから神様が新天新地を更新し完成される暁には苦労した人がその報いにあずかるということが真実な意味で成就すると神様はおっしゃったのです。「努力の成果ではなく、環境のおかげ」とは周りの人々やその方々の理不尽な世界との戦いによる環境のことでしょう。聖書でも報いというものは神の恵みによると教えられています。努力して苦労して自信をもつことは悪いことではありません。しかし「自分の力だ、私の賜物だ、だから当然だ」と誤解してはいけません。そういう時こそ謙虚になって「恵まれたんだ!環境や神様によるものだったんだ。」ということを心に刻まなければいけません。   冒頭の聖書の言葉はイエスが弟子たちに祈ることをお教えになった時の言葉です。この教えは特に偽善者やその偽善を警戒して注意したものです。それは人に見てもらおうとする祈りです。見てもらうことを通していかに自分が信仰深いのか敬虔であるのかを誇ろうとしたものです。でもイエスはそういう祈りは「既に報いを受けて」しまっていると言われて、だから報いがない、聞かれないと言いたげです。むしろ祈るときは「隠れたところにおられるあなたの父に祈りなさい。そうすれば隠れたことを見ておられる父が報いてくださる。」とお教えになりました。これは皆さんのプライベートな生活や言動を父なる神様がチェックしていますよ、だから気をつけなさい、恐れなさいということではありません。そうではなく偽善者のように見てもらって報いられる姿ではなくて、人から報いられない、ただ父なる神様にだけ報いや応答を期待する祈りこそ父なる神様はちゃんと「報いてくださる」「見ておられる」という教えです。皆さんもこうしたことで悩んだことはありませんか。頑張っても報いられないこと、勉強であるとか就活であるとか、サークル、家族や友人、バイト先の人間関係などがんばっているのに評価されない。苦労しているのに認めてもらえない。気をつかっているのに誰にも理解されなくて孤独だといったこと。私たちの世界は頑張ったら必ず報いられるという世界ではありません。苦労したら必ず人や社会に評価されるとも、アピールや主張すれば必ず聞いてもらえるとも言えません。しかし父なる神様は「報いられない」「評価されない」「理解してもらえない」といったあなたの祈りや努力、叫びをきちんと受け止め、人の世界では決して評価されない「隠れたことを見ておられ」ます。そして人の世界の評価や報いとは違った神様による報いをもってあなたに応答してくださいます。ですからこの社会の中で努力しても報わないからといって諦めてはいけません。努力しても無駄と思って刹那的に生きてはいけません。あなたの祈り、努力、叫びを父なる神様は見ていてくださいます。現代は仕事につけば効率や成果ばかりが求められ、学校では自己アピールや主張の仕方ばかりが教えられます。挙句にいかに良い環境を手にするかばかりが競争社会の中で最善のごとく考えられています。そこには謙虚さも感謝も思いやりもありません。あなたが今悩んだりがっかりしていることの中には、人として他者の痛みや悲しみを理解できるといった人格を育むための大切な経験と意味があるのです。評価されない、報いられないからといって諦めてはいけません。むしろあなたの思いを神様に祈りをもってぶつけてみてください。あなたは何かをそこに見出すはずです。       「良い目を見させてくれる者などいない」  2022年1月14日(金) インマヌエル甲府教会 岡 まき牧師   「恵みを示す者があろうかと、多くの人は問います。主よ、わたしたちに御顔の光を向けてください。」(詩編4編7節)   映画やドラマの感動的なシーンを見ながら、「そんなうまくいくか」と思うことが良くあります。本当はそうなってほしいと、期待して見ているのですが、いざ願った通りの展開になると、「そんな都合よくいくか」と突っ込みたくなるのです。「恵みを示す者があろうかと、多くの人は問います(私たちにそんな良い目を見させてくれる者などいない)」聖書の時代だけではなく、今でも多くの人たちが、そうつぶやいているのではないでしょうか。   「良い目を見させてくれる者などいない」世間の人がつぶやいているような時、この詩編の作者ダビデは、度々絶体絶命の危機を通らされて来ました。2節にあるように、「答えて下さい、解き放ってください。神よ。聞いてください。」と必死で祈って来ました。しかし、そのような状況にある時でも、ダビデは主の救いに安らいでいました。    そして、「恵みを示す者があろうか」と言っているような人たちを批判しています。同時に、そうつぶやく人たちの中に、切なる心の渇きがあるのを見ています。それに対してダビデは、「主がおられるじゃないか。神に本気で向き合って、神に対して本気で生きるなら、今すぐ幸せになれるのに。(3-6節)」と訴えているのです。   7節はこう続きます。「主よ、わたしたちに御顔の光を向けてください。」次の8節で、「人々は麦とぶどうを豊かに取り入れて喜びます。それにもまさる喜びを わたしの心にお与えください。」更に9節 で「平和のうちに身を横たえ、わたしは眠ります。主よ、あなただけが、確かに わたしをここに住まわせてくださるのです。」と続きます。   「御顔の光」(7節)とは、危機的な状況にも関わらず、豊作に勝る喜びと充足(8節)をもたらすものであり、平和な眠り(9節)を与えてくれるものです。それは神に愛され、神が共にいて下さる事の実感であり、幸せそのものであり、救いの本質なのです。   「恵みを示す者があろうか(良い目を見させてくれる者などいない)」とつぶやく私たちのためにも、主は御顔の光を向ける準備がおありなのです。       「インマヌエル」  2021年12月10日(金) 日本福音ルーテル甲府教会 筑田 仁牧師   「イエス・キリストの誕生の次第は次のようであった。母マリアはヨセフと婚約していたが、二人が一緒になる前に、聖霊によって身ごもっていることが明らかになった。夫ヨセフは正しい人であったので、マリアのことを表ざたにするのを望まず、ひそかに縁を切ろうと決心した。このように考えていると、主の天使が夢に現れて言った。『ダビデの子ヨセフ、恐れず妻マリアを迎え入れなさい。マリアの胎の子は聖霊によって宿ったのである。マリアは男の子を産む。その子をイエスと名付けなさい。この子は自分の民を罪から救うからである。』このすべてのことが起こったのは、主が預言者を通して言われていたことが実現するためであった。『見よ、おとめが身ごもって男の子を産む。その名はインマヌエルと呼ばれる。』この名は、『神は我々と共におられる』という意味である。ヨセフは眠りから覚めると、主の天使が命じたとおり、妻を迎え入れ、 男の子が生まれるまでマリアと関係することはなかった。そして、その子をイエスと名付けた。」(マタイによる福音書1章18-25節)   私たちは、主イエス・キリストのご降誕を待ち望む待降節を迎えています。今日はこの礼拝で皆さんと一緒に主イエスのご降誕を分かち合いたいと思います。   主イエス・キリストをその身に宿すことになったマリアとヨセフの話です。二人は婚約中でありました。当時の婚約は結婚前の約一年間を意味し結婚と同じ扱いであったようです。そのマリアが妊娠をしていることが明らかになります。マタイによる福音書1章19節。   「夫ヨセフは正しい人であったので、マリアのことを表ざたにするのを望まず、ひそかに縁を切ろうと決心した。」   夫ヨセフは正しい人であったと書かれています。この意味は当時の律法を守って生きていたということです。ヨセフは、当然マリアの妊娠に驚いたことでしょう。当時このような出来事は石打の刑です。マリアとの婚約は破談になろうとしていました。ここでヨセフは「ひそかに縁を切ろう」とマリアの身の安全を計ろうと考えました。ヨセフはマリアのその後の人生を考えて悩んだのではないでしょうか。   しかし、この時、天使の声がヨセフの夢に響き渡るのです。1章23節。 「『見よ、おとめが身ごもって男の子を産む。その名はインマヌエルと呼ばれる。』この名は、『神は我々と共におられる』という意味である。」   一人の男の子が、この世に生を宿す。混沌とした状況にあるイスラエルを救う赤子がマリアから産まれる。   インマヌエル-「神は我々と共におられる」。神が、どんなに困難な状況にあったとしても、一人の男が人生の瀬戸際に陥っていたとしても、神があなたと共におられ救い出すというのです。天使が現れたこと、それは神がこの世界に介入してきたことです。圧倒的な神の恵みがこの世界に突入してきたのです。ここから、イスラエルの民の、私たち異邦人の救いの歴史が始まるのです。それは―インマヌエル、神が私たちと共におられるという歴史です。   インマヌエル。神が、私たちの日々の生活のただ中に入ってくださるということ。み子主イエス・キリストのご降誕は、神様による希望の始まりです。この知らせは、イスラエルの民だけではなく、異邦人と呼ばれる私たちにも及び、そして全ての民に告げられていきます。このお方のご降誕に私たちの望みがあります。待降節のこの季節、神のみ子主イエス・キリストのご降誕を心から待ち望み感謝の内に過ごしていきたく思います。神様の祝福が皆さんの上に豊かにありますように。       「許されて人は変わる」  2021年12月3日(金) 日本基督教団市川教会 西川良三伝道師    「あるいは、神の憐れみがあなたを悔い改めに導くことも知らないで、その豊かな慈愛と寛容と忍耐とを軽んじるのですか。 」(ローマの信徒への手紙2章4節)   このローマの信徒への手紙のパウロの言葉は、自分が正しいと思って人を裁く2000年前のユダヤ人たちに対する戒めでした。しかし今日における私たちに対する警告でもあります。神によって注がれる豊かな「慈愛」「忍耐」「寛容」は、人を方向転換させるのだから、他人を裁くのはやめよう。わたしたちは許されて生きているのだから、その恵みに感謝しつつ、隣人を受け入れよう、ということです。   私が大学1年生の時に、韓国のウオンジュという町で行われた青少年の国際ワークキャンプに参加した時のことです。キャンプの終わりの頃、その町の名士の方々の家庭に、キャンプの参加者が分散して一泊ホームステイを行うことになりました。わたしはある宝石商の家庭に滞在しました。ご馳走をふんだんにいただいて歓迎されたのですが、そこに中学2年生の女の子がいました。とても人懐こい子でしたが、その子が、朝早く起きて町にサイクリングに行こうというのです。それでその子についていくと、行った先は大きな公園墓地でした。そこでその子が次のようにいいました。「ここは、日本軍に殺された人たちの墓地です。これまで、私は日本人のことが憎かった。でもお友達ができたからもうそうは思わない。」そのような韓国の人たちの日本人に対する見方は、感じてはいましたが、小さな中学生の子から直接言われるのはある意味ショックでした。しかしこの体験を通して自分たちの上の世代の人たちが行った戦争という過ちは自分たちの問題でもあることに気づかされたのです。それは許されて初めて気がついたことでした。わたしたちは、神様から許されていて、その慈愛のもとに生かされているのです。たとえ隣人との間にぎくしゃくしたことがあっても、いつか神様が入ってとりなしてくださって、新たな関係が生じてくることを信じて日々歩みたいと思います。       「キリストを待ち望むとき」  2021年11月26日(金) 宗教主事 大久保 絹   「世は更け、日は近づいた。だから、闇の行いを脱ぎ捨てて光の武具を身につけましょう。 」(ローマの信徒への手紙13章12節)   キリスト教の暦では、まもなく「アドベント」という期間を迎えます。待降節とも呼ばれるこのときは、救い主イエス・キリストの降誕、つまりクリスマスがやって来るのを待ち望む準備のときです。 「待つ」ということについて、カトリックの晴佐久昌英神父は、「いのちの基本は『待ち』だ。」と言います。「山住は春を待ち、農民は実りを待ち、漁師は夜明けを待つ。」と例を挙げ、「彼らは待つ間にも人知れず偉大な力が働いていること、やがていつか神聖な世界がたち現れることを、経験と直感から信じている。」と説明しています。 コロナ渦で、私たちは様々な場面で「待つこと」を求められてきました。それに伴う不安や焦りを感じることも度々ありました。しかし「待つこと」によって日常を省みたり、新たに気づかされたり、学んだりしたことがあったのではないでしょうか。   今日ひいた聖書のことばは、闇と光という二元論的語法が使われています。そして、今が闇であろうとも、朝の近いことを知っている者は正しい行いをし、日常生活を大切にするよう勧めています。与えられている毎日を感謝して、大切に過ごす者のところにこそ光はやってくると確信できる箇所です。   イエス・キリストは、この世の光として、神さまが与えてくださいました。正しいとはいえない行いや、日常を大切にしているとはいえない生き方が溢れるこの世の中に、「神の子・救い主」として来てくださったのです。そう私たちクリスチャンは信じています。この出来事を2000年以上もの昔の出来事として捉えるのでなく、当時の状況を思い浮かべるとき、いま私たちが置かれている状況と似ていることに気づかされます。争い、差別、貧困問題は消えることなく、むしろ闇が深まるばかりではないかとさえ感じます。しかし、それにもかかわらず、それらを包み込み、暗闇から光へと導き出してくれるクリスマスの希望を切に待ち望み、主による助けが、みなさんの周りだけでなく、世界の隅々まで広がることを祈り、アドベントを過ごしたいと思うのです。アドベントのもとになったラテン語の Advenio (アドヴェニオー)は、「向こうからこちらへ到来する」を意味します。「神聖な世界のたち現れを」待つ日々を悦びをもって過ごしましょう。       「最後まで耐え忍ぶ者は救われる」  2021年11月12 日(金) 日本基督教団 引退教師 田口 重彦 牧師   「イエスがオリーブ山で座っておられると、弟子たちがやって来て、ひそかに言った。「おっしゃってくだ さい。そのことはいつ起こるのですか。また、あなたが来られて世の終わるときには、どんな徴があるのですか。」イエスはお答えになった。「人に惑わされないように気をつけなさい。わたしの名を名乗る者が大勢現れ、『わたしがメシアだ』と言って、多くの人を惑わすだろう。戦争の騒ぎや戦争のうわさを聞くだろうが、慌てないように気をつけなさい。そういうことは起こるに決まっているが、まだ世の終わりではない。民は民に、国は国に敵対して立ち上がり、方々に飢饉や地震が起こる。しかし、これらはすべて産みの苦しみの始まりである。そのとき、あなたがたは苦しみを受け、殺される。また、わたしの名のために、あなたがたはあらゆる民に憎まれる。そのとき、多くの人がつまずき、互いに裏切り、憎み合うようになる。偽預言者も大勢現れ、多くの人を惑わす。不法がはびこるので、多くの人の愛が冷える。しかし、最後まで耐え忍ぶ者は救われる。そして、御国のこの福音はあらゆる民への証しとして、全世界に宣べ伝えられる。それから、終わりが来る。 」(マタイによる福音書24章3-14節)   この箇所は聖書の終末観が描かれています。先ず、各地で闘いが起こり、民は民に、国は国に敵対して立ち上がります。続いて地震や飢餓や天変地異が起こります。人間と人間は互いに争い、憎み合い、裏切り合い、傷つけ合い人間関係はずたずたに切り裂かれてしまいます。不法がはびこり、偽預言者が現れて人を惑わせます。混乱と阿鼻叫喚の地獄のような様相を経て、いよいよ救いの業が働き始めるというのが終末の姿です。そしてそれはこの世の終わりに来るとなっていますので殆どの人は遠い未来の事であって、自分の人生には降りかかって来ないだろうと真剣に考える事をしません。   しかし現代はまさにその兆しとしてしか考えられないような出来事が各所で起こっています。気候変動による大災害、コロナに象徴される思いがけない世界的災害、各地で生じている紛争や戦争、数々の大事故、そしてそれが何時自分の身に降りかかってくるか分からないのです。いやすでにその渦中にあって行き詰っている人も多いのです。   今回の聖書のこの箇所ではその解決策として、他の箇所で多くみられる差し伸べられる愛の業や励ましの言葉ではなく、一見無機質とも思われる言葉が投げ掛けられます。「最後まで耐え忍ぶ者は救われる」と。   戦中戦後にかけての私の体験ですが、英米との戦いの中ではキリスト教の牧師は敵性宗教の教師でありスパイと思われていました。その子供としての私は小学生から中学生にかけて非国民としてひどい差別を受けました。その上空襲で家と財産を全て失って家無く食べる物もなく地方を転々と放浪する中でそこでもよそ者としてひどい差別を受け続けました。終末のような状況の中で、牧師の子供として生まれた事を神に呪った程です。この時、自暴自棄になり破壊的精神に陥りかけた私を支えてくれたのはまさにこの言葉だったのです。何も考えなくても良い、ただ耐え続ければ良いのだ。耐え続けていればその先に救いがある。それなら出来るかもしれない。こうしてその危機を乗り越える事が出来たのです。   皆さん方も長い人生の途上で何時このような過酷な状況を生きなければならない時が来るかもしれません。そうした時、十字架という過酷な運命を引き受けて生きられたイエス・キリストのこの言葉がある事を是非思い出して欲しいと思います。       「泣く人と共に」  2021年11月5日(金) 日本基督教団 勝沼教会 舩戸 良隆 牧師   「喜ぶ人と共に喜び、泣く人と共に泣きなさい。」(ルカによる福音書12章15節)   もうだいぶ前の話になりますが、わたしが「アジアキリスト教教育基金」のスタディーツアーでバングラデシュに行ったときの話です。   ある晩、深夜になってから、一人の女子大生がわたしの部屋をノックしました。開けてみると、先生に質問がありますとのこと。中に入れて聞いてみると彼女はこう語り始めたのです。「先生、わたしは今日、寺子屋学校(小さな小学校)の生徒の家へ連れて行かれました。勉強が終わった後、どうしても家に来てくださいと引っ張って行かれたのです。入ってみて驚きました。これが人間の住むところかと。ニッパヤシの屋根にひとつのベッド、土間にはお釜と鍋が転がしてあります。その狭い部屋で家族6人が暮らしているというのです。わたしはただ唖然として何も言葉が出ませんでした。・・・・先生はこのスタディーツアーでも、「神は愛である」とたびたび言っておられますが、もし神が愛であると言うなら、なぜ、こんなひどいところで子供が生きてゆかなければならないのですか。・・・」   彼女は、大粒の涙をぽろぽろとこぼしながら、わたしを叱責するように問い詰めてゆくのです。・・・ わたしは、しばらく黙っていました。というよりは答えられなかったのです。そして、やっとこう答えるのが精一杯でした。「わたしにもどうしてだかわかりません。ただ、神がこのような状態を「善い」としておられないのは確かです。また、このような状態が無くなるようにわたしたちが働かなくてはならないということも、確かなことではないでしょうか。」   わたしたちは、今、どういう生活をしているのでしょうか。アジア・アフリカで、わたしたちには想像もできない生活を余儀なくされている、わたしたちと同世代の人たちがいます。 今の生活に甘んじることなく、目を覚ましましょう。目を見開き、世界をじっと見つめましょう。そこに、これからのあなたの生き方が見えてきますから。     「あなたが今、求めているものは何ですか?」  2021年10 月29 日(金) イムマヌエル綜合伝道団 インマヌエル甲府キリスト教会 岡 信男 牧師   「求めなさい。そうすれば、与えられる。探しなさい。そうすれば、見つかる。門をたたきなさい。そうすれば、開かれる。 だれでも、求める者は受け、探す者は見つけ、門をたたく者には開かれる。あなたがたのだれが、パンを欲しがる自分の子供に、石を与えるだろうか。魚を欲しがるのに、蛇を与えるだろうか。 このように、あなたがたは悪い者でありながらも、自分の子供には良い物を与えることを知っている。まして、あなたがたの天の父は、求める者に良い物をくださるにちがいない。」(マタイによる福音書7章7-11節)   「求めなさい。そうすれば、与えられる」と、キリストは、祈りについて教えてくださいました。   私は、山梨英和中学校・高校の聖書科を受け持っています。先月、中学3年生の授業で、この箇所を一緒に学びました。このメッセージのタイトルは、その授業で出した質問の一つです。生徒たちの回答は、「時間」「一人部屋」「そのままの自分を好きになってくれる友人」「集中力」等々、バラエティーに富んでいました。皆さんでしたら、何と答えるでしょうか?   生徒たちの答えの中で多かったのは、「世界中の方々が幸せに過ごせること」「戦争や貧困のない平和で幸せな日常」といった平和についてのものでした。平和とは、有って当たり前の物が有る状態です。ところが、今の私たちは、当たり前の日常が奪われる経験の最中に置かれています。   私たちが何を求めるか?キリストが、ここで例示されたのは、パンや魚という小さなもの、まさに私たちの日常そのものでした。山を動かすような大きな求めではありません。   加えて、興味深いのは、「祈りなさい」ではなく、「求めなさい、探しなさい、たたきなさい」と言われている点です。祈るとは、求め、探し、たたくのと同じだというのです。人は、誰に教えてもらうでもなく、求め、探し、たたくことをします。生まれたばかりの赤ちゃんでさえ、泣き声をあげて、求めています。神に祈るとは、人が人として生きていく上で、極めて自然な行為、必要不可欠な営みなのです。   人生の一大事において、神に祈ることも大切ですが、パンという日常のために祈ることも大切なのです。実際、求めなくても、パンは与えられることでしょう。それでも、求めなさいと主は言われます。有って当たり前の物が突如として失われる、それが私たちの現実だからです。   しかし、もう一つの現実があります。神が、求める者に良い物をくださるという現実です。神は、私たちの普段の日々を良い物で満たしたく願っておられます。「求めなさい。そうすれば、与えられる」、主はこの言葉で、私たちに、平和に至る道を指し示しておられます。     「平和の計画」  2021年10 月22日(金) 日本基督教団 甲府中央教会 小林 久実 牧師   「主はこう言われる。バビロンに七十年の時が満ちたなら、わたしはあなたたちを顧みる。わたしは恵みの約束を果たし、あなたたちをこの地に連れ戻す。わたしは、あなたたちのために立てた計画をよく心に留めている、と主は言われる。それは平和の計画であって、災いの計画ではない。将来と希望を与えるものである。」(エレミヤ書29章10~11節)    以前、千葉におりました時、歯医者さんに通っていました。誠実で実に腕のよい歯医者さんで、そこに行くと安心して眠ってしまうほどでした。  多分私の保険証から私が牧師だということが分かっていたのでしょう。ある時「噛んだまましばらくそのままで」と言われた時間、先生が私に話しかけてきたのです。 「僕は、以前教会に通っていたことがあるんです。教会では『神のプラン(計画)がある』と言われていたのだけれど、でも神のプランがあるなら、何故この世に理不尽な苦しみがあるのか分からない。そして行かなくなった」と。  口を閉じて眠りかけている時に、いきなり信仰の深淵な問い掛けをされて、私は慌てました。「イマハナセマセン」と喉で言うと、先生は「あっそうか」と。  しばしじっとする中、思いを巡らせました。でも、私には口を開けた時にも、短い言葉でその問いに対する返答をすることが出来ませんでした。      牧師になって10年少し。この間、多くの方々の人生の悲しみに出会って来ました。 この10年、理不尽な悲しみ、愛する人の突然の死など、経験をされて崩れ落ちている方々に、どうやって言葉を掛けたら良いのか、思わない時はありませんでした。何故こんなことが起こるのか。神はどこにいるのか、そのような叫びを主なる神はどれほど聞いておられることでしょう。    教会に居りますと、そんな悲しみを抱えながらも、ひたすら主なる神に向かって自分自身の悲しみや怒りを投げ出して礼拝をささげ、そこに座り続けておられる方々がおられることを知ります。怒り、悲しみながら、神を睨みつけるようにそこに座っておられる方々。 そしてそこに座り続けながら、いつしか年月と共に、穏やかな信頼と新しい力に満たされていかれることも見て来ました。主は、怒り悲しみ、絶望の淵に落とされながらもひたすらにご自身に向かって問い掛け続ける人の、その問いを御心にとめられ、その方を愛で包み続けておられることを知りました。    今日の御言葉はイスラエル民族の最大ともいえるバビロン捕囚という苦難の中で、預言者エレミヤに語られた主の言葉です。 民族の最大のこの苦難を主は、主の立てられた計画(プラン)であると言われ、それは「平和の計画であって、災いの計画ではない」と言われるのです。 しかし、バビロン捕囚によって苦しみに落とされた人は計り知れず、また平和はすぐには来ませんでした。その時生きていた多くの人たちの生涯を超えて、70年の年月の後、主の御業は現わされることになります。   「神のプランがあるなら、どうして世に理不尽な悲しみがあるのか分からない」  歯医者さんの問い掛けは、人の傷みを知るその方の、真摯な問い掛けでした。その問いに明確に答える言葉を、私は今もまだ探し続けています。    しかし、私には確信があります。主は主に向かって問い続ける私たちに必ず答えをくだることを。そして、私たちのうちに希望と新しく生きる力を与えてくださることを。そして、すべてのことを通して、神はご自身のプランを成し遂げられ、それは「平和の計画」であることを。      コロナ禍にある私たち。このことを通しても、神が「平和の計画」を成し遂げられることを信じ、祈っています。     「わたしのものはわたしのもの、あなたのものはあなたのもの」?  2021年10 月15日(金) 日本聖公会 甲府聖オーガスチン教会・長坂聖マリヤ教会 司祭 パウロ眞野玄範   「「旅人をもてなすことを忘れてはいけません。そうすることで、ある人たちは、気づかずに天使たちをもてなしました。」(ヘブライ人への手紙13章2節)   「おまえのものはおれのもの、おれのものはおれのもの」。ドラえもんのジャイアンの名言として知られるこの言葉は、福音書で「昔の人の言い伝え」として言及されている口伝律法集『ミシュナ』が出典です。原文には次のように書かれています。   「人間には四つの型がある。わたしのものはわたしのもの、あなたのものはあなたのもの、という人。これは平均的な型である。これはソドム型と言う者もいる。わたしのものはあなたのもの、あなたのものはわたしのもの、という人。これはアム・ハ・アレツ(地の民 )。わたしのものはあなたのもの、あなたのものはあなたのもの、という人。これは敬虔な者。わたしのものはわたしのもの、あなたのものもわたしのもの、という人。これは悪人。」   四つ目の「悪人」型、三つ目の「信仰者」型は、そうだなと思われるでしょう。二つ目も昔の農村社会をイメージすれば、納得されるかもしれません。では一つ目の型はどうでしょう。当たり前と思われるでしょうか。現代でもこれが「平均的な型」でしょう。しかし、これは「ソドム型」とも言われるとあります。ソドムは、その罪深さのゆえに神によって滅ぼされたことで知られている町です(創世記19章)。ソドムの罪は、しばしば誤解されていますが、「わたしのものはわたしのもの、あなたのものはあなたのもの」と考え、助けが必要な旅人や貧者に冷淡にする罪です。   ソドムの人々と対比されるのが、キリスト教、ユダヤ教、イスラム教で「信仰の父」とされているアブラハムです。アブラハムは見知らぬ旅人を自分の住まいに招き入れ、歓待して、神の祝福を受けました。『ヘブライ人への手紙』に「旅人をもてなすことを忘れてはなりません。そうすることで、ある人たちは、気付かずに天使たちをもてなしました」とありますが、キリスト教は中世まで、よそものを歓待することは、イエス・キリストを歓待することであり、それが隣人愛の実践であるという理解を持っていました。これは、今、わたしたちが回復する必要のある理解ではないでしょうか。     「結婚」  2021年10 月8日(金) 日本基督教団 市川教会 西川 優子 伝道師    「あでやかさは欺き、美しさは空しい。主を畏れる女こそ、たたえられる。」 (箴言31章30節)   山梨英和大学の皆さん、初めまして。お話させていただく機会をありがとうございます。   私は長崎県五島列島福江島の出身です。カトリックの信者さんが多い土地柄で、キリスト教にはなじみが深く、私の家にも聖書がありました。   中学高校生の頃よく読んでいたのが、今日の箴言です。将来結婚することを夢見て、自分はどういう女性になれば素敵な人と結婚できるんだろう、なんて考えながら、読んでいました。ここにひとつの答えが書いてあったからです。   当時注目していたのは、10節から書かれている「有能な女性」になること。てきぱきと家事をこなし、仕事も子育ても順調で、だれからも尊敬され、思いやりの深い女性。そんな妻がいたら、夫は幸せだろうな、という男の人中心的な考え方だったと思います。   今は全く違います。   男性でも女性でも「主を畏れる」こと、これが結婚における鍵なのだと思います。   夫と私が結婚した時、彼はキリスト教徒でしたが、私は違いました。そのため夫は迷ってお母さんに相談したそうです。その時お母さんは、「あなた次第。信仰を押し付けちゃダメ」と言ってくれたそうです。おかげで私は何のプレッシャーも感じず、結婚生活を始めることができました。実は私の方では、逆に安心していたのです。なぜかというと、彼にはキリストという親分がいる。親分が悲しむようなこと、例えば威張って私をいじめるとかできないぞ、と思ったのです。箴言を読んでいたおかげかもしれません。「主を畏れる人」と結婚してよかったと思います。ずっと私を大切にしてくれました。   彼の親分がどんな人か興味があり、一緒に教会に行きました。そして礼拝の中で、私も親分に出会い、どんな本を読んでも自分にOKを出せなかった私にも、神様はOKをくださることを知りました。   大学生の時教会に行っていればよかった、と今は思います。「自分には価値がない」と思って苦しんでいたからです。あなたもおいで下さい、教会に!     「隠れた才能が目覚めるとき」  2021年10 月1日(金) 日本基督教団 大月新生教会 井本克二 牧師    「土はひとりでに実を結ばせるものであり、まず茎、次に穂、そしてその穂には豊かな実ができる。」 (マルコによる福音書4章28節)   モーツアルトの音楽を「溢れ出る芸術」と呼ぶなら、ベートーヴェンの音楽は「絞り出す芸術」と呼ぶことができるでしょう。最近、「博士と狂人」という映画を見て才能の目覚めの不思議さを思わされました。それは世界最高の辞書オックスフォード英語大辞典(OED)の誕生秘話です。   1837年生まれのスコットランド人編集主幹のマレーは14歳以降、独学でヨーロッパの諸言語や多くの古代語の知識を身に着けていました。やがて1878年に英語大辞典発行計画が始まり、博士でもなく教授でもなかったマレーはその実力が認められて編集主幹に任命されたのです。これはすべての英単語の意味を、英語のすべての文献からの用例によって歴史的に説明するという壮大な計画でした。コンピュータもない時代ですので、大英帝国全域に呼び掛けて用例収集のボランティアからカードを集めることになりましたが、その中に大変奇妙な人物がいました。マイナーという名前と住所しか分からないまま20年近くの間、編集主幹は膨大な用例カードを次々と受け取っていました。   しかし1896年に彼が刑事犯精神病院に20数年間収容されているアメリカ人退役軍医だったことが判明します。父親はアメリカ東部の成功した印刷業者でしたが、キリスト教宣教のためスリランカに赴任、息子はそこでアジア各地の言語を習得していました。しかし南北戦争に軍医として従軍して、戦闘の残忍さによって精神に異常をきたすようになりました。被害妄想に取りつかれたこの陸軍退役将校は、休養のためロンドン移住後、襲撃者と誤ってアイルランド人労働者を射殺して刑事犯精神病院に収容されたのです。このマレーとマイナーという二つの才能が目覚めた結果70年がかりのこの大辞典は完成したのでした。   『博士と狂人』 サイモン ウィンチェスター(著)、早川書房     「エルルへの旅」  2021年7月16日(金) 日本基督教団 巨摩教会 徳田隆二 牧師    「信仰の導き手であり、またその完成者であるイエスを仰ぎ見つつ、走ろうではないか。」(口語訳聖書 へブル人への手紙12章2節a)   2020年新型コロナウイルスによるパンデミック危機がおこった当初、ヨーロッパの多くの国々が国境や都市を封鎖し、非常事態が始まった。シナゴーグ、教会、モスクなどで宗教施設も次々と閉鎖されていった(竹下節子著「疫病の精神史」―ユダヤ、キリスト教の 穢れと救い―)。イタリアで、新型コロナウイルスによる多くの犠牲者を出したとき、教皇フランシスコの呼びかけで多くの司祭が「疫病の塗油」、「終油の秘跡」、免償、葬儀といった儀礼のために動員され多数の司祭が感染して、自らも斃れた・・・・・・。   同様の報告を「婦人之友」(2020年6月号 ボローニャ在住の中村英明氏の報告文)を読み厳粛な思いで受け止めました。   地方に在って会員20名前後の教会ができることと言えば、感染拡大防止措置をとりながら主日礼拝を堅持するという小さな冒険でしかなかった。   教団新報第4928、29号のコラム欄に日本基督教団副議長久世そらち氏が書いているが「13世紀にローマ帝国を襲ったパンデミックは、当時まだ少数派だったキリスト教の進展を促したと言われている。疫病のもたらす死を神々の懲罰と恐れ、感染者が手当もされず放棄される中、キリスト者たちは死を恐れず隣人たちの看病にあたった。それによってキリスト教への信頼が高まった」という。   2019年8月、テマサトラベルと「エルルの会」が企画した「エルルのキリスト受難劇」を観る旅に参加しました。17世紀の三十年戦争で荒廃したヨーロッパで「黒死病」と恐れられたペストが猛威をふるい、村人たちが亡くなっていくなか、村人は1613年「われらの主イエスキリストの苦しみ、死と復活の劇を演じることを誓います。」それ以降死者は出なくなったと伝えられています。イエスキリストの受難劇は神の勝利を褒め称えるものとして理解され受け止められたのです。エルルへの旅はキリストの十字架の死と苦難の意味を問いかけるスケールの大きな物語である。(2019年は6年に一度開催されるエルルのキリスト受難劇の年でした。エルルの受難劇は、前回上演の2013年で400年を迎え、ヨーロッパ各地で催される受難劇の中で最も古い伝統をもちます)。       「子どもの心を知る大人へと」  2021年7月9日(金) 日本基督教団 富士吉田教会 中山契生 牧師    「はっきり言っておく。心を入れ替えて子供のようにならなければ、決して天の国に入ることはできない。自分を低くして――――このような一人の子供を受け入れる者は、わたしを受け入れるのである。」(マタイによる福音書18章3~5節抜粋)                               イエスは、心を入れ替えて、また自分を低くして子供のようになり、彼らを受け入れる者となりなさいと教えます。では、私たち大人が「子供のようになる」とは、どういうことなのでしょう。   それは、間違っても私たちが幼稚な大人になるという事ではないでしょう。むしろ、どこに行くにも何をするにも誰かの助けを必要としなければならない子どもの目線へと、私たちも「自分を低くして」、そこから何が見え、何を心の中に感じ取っているのかを「心を入れ替えて」知ろうとする、そういう大人になるということなのだと思います。   ともすると私たち大人は、子どもたちの言動を軽んじて真剣に耳を傾けようとしなかったりしてしまうときがあります。「子供は引っ込んでなさい」とか、「これができるようになってから言いなさい」とか、「大人には大人の事情があるのよ」とか云々。そういう大人の事情が、時に子どもたちの必要としていることを見誤らせたり、せっぱつまった子どもたちの心の叫びをさえも見落とさせたりしてしまうということは少なくありません。   きっとそんな、ともすると軽んじられてしまう弱い立場の子どもによりそうように、その「低み」に視座を置いて子どもの心を知る大人として、彼らのために物事を考え振舞う人こそが、天の国にふさわしいとされる「心を入れ替えて子供のようになる」人なのだと私は思います。そしてそれこそが、「子供を受け入れる」という事でもあるでしょう。   今、私たちはコロナ禍にあって、子どもたちのみならず社会的に弱い立場の人たちが少なからず顧みられない時代を生きています。もしかしたら、皆さんもそんな不条理を感じておられるのかもしれません。しかし、そんな痛みを知る私たちだからこそ、イエスの語る天の国にふさわしい大人になるお互いでありたい。そう願ってやみません。   声にならない心の叫びが聞かれ、互いを受け入れ合うことのできる皆さんの未来のために。         「神さまの御言葉」  2021年7月2日(金) 日本基督教団 石和教会 田邉 良三 牧師    「そのように、わたしの口から出るわたしの言葉も むなしくは、わたしのもとに戻らない。それはわたしの望むことを成し遂げ わたしが与えた使命を必ず果たす。」(イザヤ書55章11節)   私たちは毎日、様々な困難と遭遇しています。自分の思い通りに行かないことのなんと多いことかと嘆きたくなることも度々です。そんな中で、時に自分を見失ったり、自信や希望を失うことも、孤独を強く感じることも起こってきます。そんな時こそ立ち止まり、聖書を開いて、私たちに語りかける神さまの御言葉を聴いてほしいのです。   今日与えられたイザヤ書の御言葉には、それに先立つ言葉があります。「雨も雪も、ひとたび天から降ればむなしく天に戻ることはない。それは大地を潤し、芽を出させ、生い茂らせ種蒔く人には種を与え食べる人には糧を与える。」という言葉です。ちょうど今は梅雨の真っ只中で、よく雨が降って外出するにも傘の心配なんかもしなければなりません。梅雨の時季というのは私たちにとってはかなり鬱陶しく、煩わしい時でもあります。しかし、その鬱陶しく思う雨が豊かな恵みとなり、世界を潤しています。私たちはなかなか与えられている恵みの本当の豊かさ、ありがたさに気づけない、感謝出来ないものなのかも知れません。それでも神さまの恵みは、確かに私たちに与え続けられています。   石和教会では毎年6月の第二日曜日に、花の日・こどもの日として礼拝を守っています。今年も綺麗に咲く花々に、そして、日々成長するこどもたちに、私たちを包む神さまの恵みを豊かに感じる時となりました。しかし、そこに集いたくても集えない人々もいます。その時に、共に集うことの出来なかった一人一人を、主は同じ豊かな恵みで包んでくださっていることを神さまの御言葉を通して知らされたのです。キリストによって同じ恵みを受けているからこそ、私たちは思いを一つにされ、信じて祈る事が出来たのです。   キリストは神さまの御言葉を通して約束され、全ての罪人のもとへ来てくださった救い主です。このキリストが、十字架に架かり命をかけて私たちを神さまに背く罪から解き放ち、復活の命に生きるものとしてくださいました。救い主の十字架も復活も私たちの常識では信じられないことかも知れません。しかし、神さまの御言葉は決して空しく終わるのではなく、御心のままに、どんな時も私たちを包み、主のもとへと導くのです。神さまの恵みは豊かに与えられ、御言葉に導かれ、私たちは確かにこの時を歩んでいるのです。       「思い出すまで、ここで。」  2021年6月25日(金) 日本基督教団 谷村教会 牧師 小林 護   「あなたが祭壇に供え物を献げようとし、兄弟が自分に反感を持っているのをそこで思い出したなら、その供え物を祭壇の前に置き、まず行って兄弟と仲直りをし、それから帰って来て、供え物を献げなさい。」(マタイによる福音書5章23-24節)   高校に入って間もない頃、あることで中学時代からの友達と口をきかなくなった。同じ高校に進学できたことをとても喜んだ関係だったけど、腹が立つことがあって、一方的に関係を絶った。卒業するまでの三年間一度も口をきかなかった。彼は剣道部で、私は柔道部。道場が隣だったこともあって、傍目で見つめる私がいた。卒業をもう少しで迎えるとき、「もうやめようぜ」と彼が言ってきた。心が痛かった。嬉しさよりも、言えなかった自分を悲しく思った。   イエス・キリストを信じるというのは、ひた隠しにしていた本当の自分と向き合ことだと思う。思い出すことなのだ。人間は、時に忘れないと生きてはいけない者だけど、忘れてはいけないことまで忘れてしまう者でもある。思い出そうとしない私たちがいるのだ。しかし、その私たちが思い出すことをためらわない空間がある。それが礼拝だ。   「あなたが祭壇に供え物を献げようとし、兄弟が自分に反感を持っているのをそこで思い出したなら、その供え物を祭壇の前に置き、まず行って兄弟と仲直りをし…」   思い出せ、今このとき。大切なことを忘れてはいないか?イエスはそう語った。   パウロはこのように言っている。「皆が預言しているところへ、信者でない人か、教会に来て間もない人が入って来たら、彼は皆から非を悟らされ、皆から罪を指摘され、 心の内に隠していたことが明るみに出され、結局、ひれ伏して神を礼拝し、「まことに、神はあなたがたの内におられます」と皆の前で言い表すことになるでしょう。」 (コリントの信徒への手紙Ⅰ14章24-25節)   神はあなたが思い出せなくなってしまった、本当のあなたと出会わせてくれる。神と出会うとは、本当のあなたと出会うことなのだ。 卒業してから別々の道を歩んだ私たち。私は牧師になり、彼は警察官になった。噂では警視正にまでなったとか。罪と格闘するという意味では同じ仕事だけど、今度は、彼よりも先に「もうやめようぜ」って言える人間でありたいと願っている。   神の思いを大切にした礼拝が、日々の生活の命となりますように。       「祈り」  2021年6月18日(金) 日本基督教団 山梨八代教会 牧師 田邉 優子   「だから、こう祈りなさい。 『天におられるわたしたちの父よ、御名が崇められますように。 御国が来ますように。 御心が行われますように、天におけるように地の上にも。 わたしたちに必要な糧を今日与えてください。 わたしたちの負い目を赦してください、 わたしたちも自分に負い目のある人を 赦しましたように。 わたしたちを誘惑に遭わせず、 悪い者から救ってください。』」(マタイによる福音書6章9-13節)   皆さんはこれまでの人生において祈ったことはありますか。その祈りがどこに向かうものであれ、祈ったことのない人は少ないのではないでしょうか。では、人が祈るのはどのような時でしょう。ほとんどが、自分ではどうすることも出来ない時、切羽詰まった状況の中で、自分を、人間を超えた存在にすがる手段として祈るのです。しかし、そのような「藁にも縋る」思いで祈るのに、本当にその祈りが向かう先が藁、頼りにならないものであったならば、余計に私たちは追い込まれ、余裕をなくし、不安になってしまいます。祈りはどこに向かう祈りか、誰に対しての祈りであるかが、実は重要なのです。   皆さんが悩み事を誰かに相談しようとする時、よく知らない人ではなく、自分のことをよく知り、親身に自分の言葉に耳を傾けてくれる人、自分もその人の言葉なら素直に聞くことが出来る、そのような人を選ぶのではないでしょうか。祈りも同じです。祈りの対象は何でもいいわけではありません。私たちの祈りが向かう先、祈る方は、私たちが信頼する方、私たちをただしい道に導き、私たちを支えてくださる方でなければ、その祈りは空しいものとなります。あるいは、ただ不平、不満をつぶやいているようなものでしょう。   キリスト教において祈りは対話だと言われます。つまり、私たちが祈る時、私たちの前には祈りの相手、主なる神さまがいてくださいます。その神さまに語りかけることから祈りは始まります。だからまず「天におられるわたしたちの父よ」と呼びかけるのです。イエス様が教えてくださったこの言葉から、私たちが祈る相手、呼びかける方は「天のおられる」「わたしたちの父」であることがわかります。わたしたちが生きるこの地を超えて高くいまし、しかし、わたしたちを父として見守り、養い、育ててくださる方にわたしたちは祈るのです。また、祈りは対話ですから、当然、相手の言葉にも耳を傾けます。わたしたちが困難の中で神さまを呼ぶ時、神さまは必ず応えてくださるのです。その神さまの声に耳を傾け、委ねて、この困難の時を歩んでいきましょう。祈りの言葉が分からない時は「主の祈り」を祈り、神さまに語りかけてみましょう。       「どうすれば幸せになれるか」  2021年6月11 日(金) 日本基督教団 南甲府教会 牧師 大木 正人   「この世で富んでいる人々に命じなさい。高慢にならず、不確かな富に望みを置くのではなく、 わたしたちにすべてのものを豊かに与えて楽しませてくださる神に望みを置くように。 善を行い、良い行いに富み、物惜しみをせず、喜んで分け与えるように。 真の命を得るために、未来に備えて自分のために堅固な基礎を築くようにと。」  (テモテへの手紙Ⅰ 6章17-19節)   『にじいろのさかな』という絵本があります。こんな言葉で始まります。   「青く深い遠くの海に一匹の魚が住んでいた。並みの魚じゃない。海じゅう捜しても、こんなにきれいな魚はいなかった。虹のように、様々な色合いの、青と緑と紫の鱗。その中にきらきら輝く銀の鱗。」   しかしこの魚、自分の鱗の綺麗さを自慢して、他の魚達が一緒に遊ぼうと言っても「返事もせず、得意になって」すいすい通り過ぎてしまいます。小さな魚から「キラキラ鱗を1枚おくれよ」とせがまれると、「誰様のつもりだ。とっととあっちへ行け!」と怒鳴り返す始末。ついには「誰一人…関わり合おうとはしなく」なってしまいます。   「目もくらむようなキラキラ鱗も、誰にも褒めてもらえなければ、何の役に立つのだろう?虹魚は、海じゅうで一番寂しいひとりぼっちの魚になってしまった。」   独りぼっちの寂しさを訴える虹魚にヒトデは「珊瑚礁の向こうにある深い洞穴に住む賢いタコのおばあさんなら君を助けてくれるかもな」と答えます。虹魚はその洞穴を訪ねます。「『お前をまっていたよ』と低い声で語るタコ」のおばあさんは、「キラキラ鱗を1枚ずつ、他の魚にくれてやる」こと、「それでお前は一番綺麗な魚ではなくなるが、どうすれば幸せになれるかがわかるだろう」と言います。「綺麗な鱗がなくてどうやって幸せになれるっていうんだ?」戸惑う虹魚。その時、彼の鰭にそっと触った者がいます。あの小さな魚です。「頼むから怒らないでね。ちっちゃな鱗を1枚だけで良いんだ。」   虹魚は鱗を一枚剥がしてあげます。小さな魚は「ありがとう!本当にありがとう!」とキラキラ鱗をくっつけて泳ぎ回ります。虹魚は不思議な気持ちで見つめます。他の魚達もやって来ます。その度に虹魚は「次から次へと鱗を分け」てあげます。そして思います。   「鱗をあげればあげるほど、嬉しくなった。周りの海中がキラキラしてくると、何だか虹魚は、他の魚と一緒にいるのが、すっかり楽しくなってきた。」絵本は次の言葉で閉じられます。    絵本は次の言葉で閉じられます。   「とうとう輝く鱗はたった1枚だけになった。虹魚は一番の宝をみんなにあげてしまった。それなのに虹魚はとても幸せ。『お出でよ、虹魚。一緒に遊ぼう!』みんなは呼んだ。『今行くよ。』と虹魚は言って、パシャパシャと幸せそうに友達の方に泳いで行った。」   「受けるよりは与える方が幸いである」(使徒言行録20章35節)「ただで受けたのだから、ただで与えなさい」(マタイによる福音書10章8節)とイエス様は仰ました。「真の命を得るために、未来に備えて…堅固な基礎を築くように」「物惜しみせず、喜んで分け与えるように」と使徒パウロは記しました。「未来に備えて…堅固な基礎を築く」ために皆さんには喜びを分かちあう仲間を創ってほしい。皆さんの若さ、学びの中で得る知識と知恵は紛れもなくキラキラ鱗です。それをいかし、差し出すとき世界はきっと明るく輝き、私達は幸せになれるに違いありません。   『にじいろのさかな』 マーカス・フィスター作、谷川俊太郎訳 講談社1995       「わたしのもとに来なさい」  2021年6月4日(金) 宗教主事 大久保 絹   「疲れた者、重荷を負う者は、だれでもわたしのもとに来なさい。休ませてあげよう。」  (マタイによる福音書11章28節)   キリスト教の礼拝とは、神を畏れ敬うことと同時に、神によって生かされている喜びを共に分かち合うことです。礼拝は、心を落ち着かせることができ、希望へと進む力が与えられ、私たちのあり方を新たにされる時ともいえます。チャペルアワーに出席されたみなさんの感想にも、「参加して心が安らぎ癒された」、「励まされた」などと書かれており、他の大学にはない「チャペルアワー」が設けられているという恵みを感じます。   教会の礼拝も学校で守られるチャペルアワーも神から招かれた大切な時です。礼拝の中心は聖書のことばを聴くことですが、教会では前奏の後に「招きのことば」が読まれます。神によってこの礼拝が招集されたことを明らかにするもので、そのことばとして用いられることの多い箇所が今日ひいた聖書のことばです。この箇所の「疲れた者、重荷を負う者」とは、生活の疲れや悩みではなく、当時の社会に求められていた厳格な律法を守ることに疲れ、それを重荷と感じていた人をいいます。    私たちの日常にも社会から、人間関係から、自分の思い描く未来から強制されたり、要請されたりする様々な苦しさや悩みが伴います。解決できないと思う難しい問題を抱え、不安や怖れを抱き、悲しみに傷つくことがあります。そのような時は、自分がどう進み、生きていくべきか見失うこともあります。しかし、主はそういう私たちを招き、癒し、いつも共におられることを心に留めたいと思います。   今日のことばにある「休ませてあげよう」とはギリシア語では「アナパウソー(ἀναπαύσω)」といいますが、「休ませる」の他に「止めさせる、終わらせる」という意味もあります。不安や恐れや悲しみは生きていく限り尽きることがないかも知れません。しかし、そうした思いをいったん止めたり終わらせたりして、日常とは別の視点から見直してみること、礼拝はそうした時だと「招きのことば」は告げています。主は休むことも備えてくださるのです。   私たちの負う重荷は簡単にはなくなりません。しかし、重荷に耐えられるように主が助けてくださること、重荷を希望へと変えてくださる主に委ね、歩むものとなりましょう。     「神様はどんな方?」  2021年5月21日(金) 山梨英和中学校・高等学校 宗教主任 宍戸 尚子   「主はすべての国を超えて高くいまし 主の栄光は天を超えて輝く。 わたしたちの神、主に並ぶものがあろうか。主は御座を高く置き なお、低く下って天と地を御覧になる。 弱い者を塵の中から起こし 乏しい者を芥の中から高く上げ 自由な人々の列に 民の自由な人々の列に返してくださる。 子のない女を家に返し 子を持つ母の喜びを与えてくださる。ハレルヤ。」  (詩編113編4~9節)   私たちが礼拝する神様とは、どんな方なのでしょうか?知らない人のことを説明されてもよくわかりませんが、実際に会って話してみれば、会う前よりずっとよくわかります。神様にお会いするにはどうしたらよいのでしょう?聖書を読む、礼拝するという仕方で、神様とお会いします。礼拝する生活を始めると、神様のことを親しく感じるようになります。   詩編113編の4節には、神様が高くおられるとあります。ところが6節を見ると「低く下って天と地を御覧になる」とあります。高くおられる方が低く下る。   ある人がこう言いました。「神様御自身は上を見上げることができません。なぜならご自分の上には何もないから。神様はまた横を見渡すこともできません。何者も神様に並ぶものはいないから。そう、神様はご自身と下を見ることしかできません。そして人が神様のはるか下にいればいるほど、人を見て、支えてくださいます。」   阪神淡路大震災を経験した父親の話です。前日、幼い子どもが父親の帰りを待って起きていました。夜更かししている子どもを「早く寝なさい!」と父親は叱ります。翌朝地震が起こり、子どもは亡くなりました。なぜあのとき優しい言葉をかけ、少しでも遊んであげなかったのだろうと後悔します。それから何とか自分にむち打ち、生活を立て直そうとしましたがなかなかうまくいきません。そんなとき、一人の牧師がこの父親に会うことになりました。   この牧師自身、被災して辛い経験をしていました。震災を通して心が張り裂けそうな思いをしてきた牧師は父親と会って、何も言わず二人で泣いたのだそうです。父親を見下さず、通り一遍のお説教はせず、無理に手を引っぱるのでもなく一緒にいてあげました。   この牧師の姿は聖書の神様の姿、キリストのお姿と似ています。高くおられる神様は、低く下ってこられ、この世の底でうめいている私たち一人一人と共に泣いてくださいます。この方に伴われて歩んでいきたいと思います。     「真の平安」  2021年5月14日(金) 山梨英和大学 宗教主任 洪 伊杓   「主はモーセに仰せになった。アロンとその子らに言いなさい。あなたたちはイスラエルの人々を祝福して、次のように言いなさい。主があなたを祝福し、あなたを守られるように。主が御顔を向けてあなたを照らし あなたに恵みを与えられるように。主が御顔をあなたに向けて あなたに平安を賜るように。彼らがわたしの名をイスラエルの人々の上に置くとき、わたしは彼らを祝福するであろう。」(民数記6章22-27節)   先週、復活したイエスが語った「シャローム」と「平和」の関係について紹介しました。続いて、今日は旧約聖書の民数記6章25節に書かれている「平安」について分かち合いたいと思います。この箇所は、神がモーセに教えた「祝福の祈り」の模範として覚えられ、教会の礼拝が終わる時の祝祷としてよく使われます。   さて、聖書が語るこの「シャローム」、「平和があるように」との言葉は果してどんな平和を願い、祈っているのでしょうか。聖書の平和は何を意味するのかと言う事です。「シャローム」、実は色々な意味があります。まず、旧約聖書においては個人また集団生活における安寧、物質的な繁栄を意味する言葉で、それは豊かさを意味しています。つまり外的な要素を語ります。旧約の時代においてこれはとても大切なことでした。神の祝福は豊かさそのものだったのです。続けて読んでいくと、その反対語としては戦争だけではなく、生活の安寧を乱し人間間の良い関係を破るいっさいのものとある通り、今度は内的な要素を言っています。   新約聖書に登場するイエスはむしろ後者の意味を大切にされました。それは人間間の関係、そしてその基礎となる神と人との関係における安寧です。聖書の語る「平和」とは、非常に身近なものなのです。日々の生活に関わること、安全であり健康であり、安らぎであり、良い関係を持つという日常生活の中に存在する安寧、そしてそのすべては神に基づいているということです。これが「平和」であり「平安」であり「安寧」なのです。そしてこのような平和を自分だけではなく相手に対しても祈ること。大切なことは自分だけが良ければそれで良いのではなく、今日出会った人の平和、今目の前にいる人の平安、そして安寧を祈ることです。聖書の「平和」はここから始まります。   今週(2021年5月16日)の日曜日は、復活最終の主日を迎えます。全世界は今、新型ウイルスによる「死と苦難」への恐怖と不安で溢れています。しかし、有限な人間イエスとしてこの世に来られた神が、死に打ち勝った結果、復活の喜びと永遠な命への希望が示されました。ここから与えられるまことの「平和」、「平安」、「安寧」が皆さんの上にありますように、願い祈ります。     「アンニョン!シャローム!」  2021年5月7日(金) 山梨英和大学 宗教主任 洪 伊杓   「こういうことを話していると、イエス御自身が彼らの真ん中に立ち、「あなたがたに平和があるように」と言われた。彼らは恐れおののき、亡霊を見ているのだと思った。そこで、イエスは言われた。「なぜ、うろたえているのか。どうして心に疑いを起こすのか。わたしの手や足を見なさい。まさしくわたしだ。触ってよく見なさい。亡霊には肉も骨もないが、あなたがたに見えるとおり、わたしにはそれがある。」こう言って、イエスは手と足をお見せになった。」(ルカによる福音書 24章36‐40節)   世界には色々な言語がありますが、韓国・朝鮮語は「おはよう」も「こんにちは」も「こんばんは」もさらには「さようなら」も一つの言葉で済ませることができます。その言葉は皆さんも聞いた事があると思いますが、「アンニョン」という言葉です。別れる時にも「アンニョン」ですから簡単です。ただし、これはいわゆる友人や年下の人に言う言葉なので年上の人には使えません。この「アンニョン」、漢字で書くと「安寧」です。簡単な言葉ですが、その意味は深く、会った時も別れる時も「安寧でありますように」と、相手の無事と安らぎを祈る言葉です。もし私と廊下で会ったら、「アンニョン」と言ってください。私も皆さんの今日一日の安寧を祈り、この言葉を送り返したいと思います。   さて、「アンニョン」と言われて思い出すのが聖書の言葉です。旧約聖書は主にヘブライ語で書かれていますが、そのヘブライ語の挨拶「シャローム」を知っていますか。この挨拶はまさに「アンニョン」に通じています。イエスももちろんこの「シャローム」という挨拶の言葉を使われていました。聖書に残されているイエスの「シャローム」という挨拶にはどのような意味があるのでしょうか。イエスが十字架にかけられ、唾をはきかけられ、槍でつかれ、とうとう息を引き取った時、弟子たちは恐ろしさのあまり逃げてしまいました。その恐ろしい十字架刑から三日目の夕方の日曜日、イエスの弟子であることがわかれば自分たちにも危険が及ぶのではないかと、恐ろしさのあまり家の戸をすべて閉め切って集まっていました。すると、そこに復活のイエスが現れ言われたのが「シャローム」でした。   イエスが言われたこの言葉は日本語で「あなたがたに平和があるように」と訳されています。以前使われていた聖書ではひと言「安かれ」と訳されていました。さらに古い聖書を見ると「平安なんぢらに在れ」と訳されています。英語の聖書では“Peace be with you”となっています。復活されたイエスが最初に弟子たちに語られた言葉です。   ゴールデンウィークの連休を過ごし、再び学校生活が本格的に始まります。皆さんは新たな出発のための休息ができましたか。新緑で溢れているこの季節、木陰に入ると少しでも悩みやストレスを忘れることが出来ます。「休」という漢字は「木」の横あるいは下に「人」がいる姿です。コロナ禍の中で周りの人々が消えてしまい、寂しさを感じる今です。真の安息、休息が取れない不安な日々です。しかし、そのような私たちの横には、迷っていた弟子たちのそばに来られた復活のイエス・キリストがともにおられることを覚えましょう。この慰めと癒しの中で、1年間の大学生活を活気溢れる「安寧な」そして、「安らかな」時としていきましょう。     「Building Relationship」  2021年4月30日(金) 山梨英和大学 宗教主事 大久保 絹   「あなたがたは、現にそうしているように、励まし合い、お互いの向上に心がけなさい。」(テサロニケの信徒への手紙Ⅰ 5章11節)   1889年、山梨英和はキリスト教精神を礎とした学校として設立されました。いまから132年前の6月のことです。初代校主・新海栄太郎と初代校長・S.A.ウィントミュートは25歳という年齢で、それぞれが大切な役割を担い、互いの力を合わせて創立期を築け上げました。   今日ひいたテサロニケの信徒への手紙一 5章11節は、本大学の2021度年間聖句として掲げている箇所です。テサロニケというエーゲ海沿岸の商業が盛んな港町のキリスト者たちに向けて使徒パウロが書いた手紙の一節です。「励まし合い、お互いの向上に心がけなさい」という文を原語のギリシア語でみると、「お互いの」は「一人がひとりを」という別の訳をつけることもできます。また「向上に心がけなさい」と訳されている動詞オイコドメオー(οἰκοδομέω)は、「建てる、築く」が原意で、そこから転じて「高める」、「促進する」という意味にもなります。ですから、この聖句は、他者と共にお互いをより高め合うような関係を築き上げ、深めていくことを勧めています。   数年前、私は日系アメリカ人の高校生が100名ほど集うキャンプに参加したのですが、この聖句はそこでの体験を私に想い起こさせました。若いキリスト者たちと共に過ごしたこのキャンプのテーマに、Building Relationship ―関係の構築―があり、初対面の人たちと関係を築き上げることを学ぶ多種のアクティビティがありました。そこで、自分が弱さだと捉えていることでも隠すことはせず、必要であれば互いに補い合い、仕え合うことのできる関係を築き上げていく心地よさを体験しました。それはまた、他者との関係や対話の中で自らを見つめ直したり、高めたりすることの尊さと喜びに気づかされた10日間でもありました。   山梨英和大学は「敬神・愛人・自修」を校訓としています。その一つである「自修」とは、自らを高め、成長させることです。自分ひとりの地道な努力で何かを成し遂げた経験は、確かに私たちを強くさせます。しかし、一人ではできないことや、一人でやっても楽しくないこともあります。大きな荷物は一人で運べませんし、バーベキューなどの交わりの会も一人では盛り上がりません。「自分がいる、そして他のみんながいる」と考えるのではなく、「他のみんなと共に自分がいる、そしてそれぞれと色々な関係を築くなかで、自分が形成され高められていく」と考えてみるのはいかがでしょうか。そうした「向上」の場としてみなさんのキャンパスライフが豊かになるように、またチャペルアワーが、そのことをおぼえるためのひとときとなることを願っています。     「貴いことに用いられる器」  2021年4月23日(金) 山梨英和大学 宗教主任 洪 伊杓   「しかし、神が据えられた堅固な基礎は揺るぎません。そこには、「主は御自分の者たちを知っておられる」と、また「主の名を呼ぶ者は皆、不義から身を引くべきである」と刻まれています。 さて、大きな家には金や銀の器だけではなく、木や土の器もあります。一方は貴いことに、他方は普通のことに用いられます。 だから、今述べた諸悪から自分を清める人は、貴いことに用いられる器になり、聖なるもの、主人に役立つもの、あらゆる善い業のために備えられたものとなるのです。」(テモテへの手紙二 2章19‐21節)   使徒パウロは、「人間の言い伝えに過ぎない哲学、つまり、空しいだまし事によって、人のとりこにされないように気をつけなさい。それは、世を支配する霊に従っており、キリストに従うものではありません。」(コロサイの信徒への手紙2:8)と忠告したことがあります。現在、インターネットやマスメディアでは新たな情報や知識で溢れています。しかし、未曾有の世界的なパンデミックの中で人間が構築した知識やシステムがどれほど無力であるかを改めて実感しています。真の知識とは何でしょうか。それはどこで学べるのでしょうか。今日ともに読んだ聖書の箇所は、使徒パウロが殉教する直前、獄中で愛する弟子テモテに送った遺言のような手紙の内容です。私はこの二人の関係と今日の箇所から山梨英和大学の校訓を思い浮かべてみます。   まず、テモテという名前はギリシャ語で「ティモテオス」(Timotheos、神を畏れ敬う者)、つまり本学の校訓の「敬神」を意味します。テモテは自分の名前通り、いつも神様を人生の中心に置いて祈り、宣べ伝える人でした。なのでパウロは彼を「信仰によるまことの子」(テモテ一、1:2)、「わたしの子よ」(テモテ二、2:1) と呼ぶほど最も信頼しました。人間の無力さと文明の虚しさを感じるコロナ禍の今こそ、私たちには、人間世界に望まれている神のみ旨を求める謙虚さと知恵が必要ではないでしょうか。   また、テモテは母親がユダヤ人、父親はギリシャ人でした。師であるパウロは「もはや、ユダヤ人もギリシア人もなく、奴隷も自由な身分の者もなく、男も女もありません。あなたがたは皆、キリスト・イエスにおいて一つだからです」(ガラテヤの信徒への手紙3:28)と述べたことがあります。テモテはこの教えに従って、互いに異なるヘブライズムとヘレニズムを積極的に調和し、ヨーロッパにもキリストの福音が伝えられるように努めた真の使徒になりました。本学も校名として付けられている「英和」という言葉を覚え、学生の皆さんが多様な性別・経済環境、国家・民族、言語・文化などを乗り越え、まことの知識と人格を身に着けることができることを願います。これは偏見や固定観念なくすべての人々を尊重し、ともに過ごす「愛人」を実践することにもなります。   最後にもう一度、今日の箇所に戻ります。パウロはテモテにキリストの福音という「堅固な基礎」を築いて進むならば決して揺るがないと断言します。そして様々な器がある中で、「自分を清める人は、貴いことに用いられる器になる」と勇気を与えました。私たち、山梨英和大学に連なる一人一人は、様々な形の器です。しかし、ここでこの世の知識とともに神のみ言葉を胸に刻みながら、自らの心を清めていくと、卒業の時には、一人一人がきっと社会に貢献する「貴いことに用いられる器、聖なるもの」になっていると信じます。神様が喜ぶ「善い業」を備え、まことの「自修」を行って行く山梨英和の皆さんになることを心から願います。     2021年度 始業礼拝 「知恵ある生き方」  2021年4月20日(火) 山梨英和大学 学長 朴 憲郁   「今の時代を何にたとえたらよいか。広場に座って、ほかの者にこう呼びかけている子供たちに似ている。 『笛を吹いたのに、踊ってくれなかった。 葬式の歌をうたったのに、悲しんでくれなかった。』 ヨハネが来て、食べも飲みもしないでいると、『あれは悪霊に取りつかれている』と言い、 人の子が来て、飲み食いすると、『見ろ、大食漢で大酒飲みだ。徴税人や罪人の仲間だ』と言う。しかし、知恵の正しさは、その働きによって証明される。」 (マタイによる福音書11章16-19節)   今週から新学期の授業が始まりました。編入生と大学院生を含めて学部208人という最近では最多人数の入学生を迎えて、在学生や先生方と共に、教学を中心とするキャンパスライフが営まれます。コロナ禍の制約された厳しい状況下にありますが、まことに喜ばし限りです。本日の始業礼拝のように、この学び舎の中心に毎週の礼拝の時間が設けられていまして、心から神への祈りと神からの語り告げがなされるということが、キリスト教大学の特色としてあります。   キリスト教系であるなしにかかわらず、ヨーロッパ中世の時代から興った近代の大学設立の目的は、学問の自由の砦として、人文科学・社会科学・自然科学それぞれの分野で真理を探究するためでありました。学生のみなさんもその目的のために入学し研鑽に励み、学生生活を始めていることと思います。そして真理を探究しつつ、将来の社会と人々に貢献できる多様な知識や技術を意欲的に修得し、さらに資格を得ていかれます。   真理の探究によって、人々は諸々の知識と共に、それらを活用しながら自らの生を意義づけて豊かにする「知恵」を獲得していきます。これは、どういうことでしょうか。このことはキリスト教精神、とりわけ聖書のみ言葉に深く関わっています。今朝の聖書箇所で申しますと、主イエスが19節でお語りになる「知恵」という言葉です。   このことを、明治期の日本に初めて大学が創設された以降の近代化のプロセスと絡めて、少し触れてみたいと思います。日本の近代化を、ある人は「キリスト教精神なき西欧化の悲劇」だと申しました。その意味は、明治以後の日本の近代化が欧米の科学技術と物資的豊かさを輸入しただけであって、欧米の精神的遺産であるキリスト教信仰を吸収したり、対決したりすることが少なかったということです。この「キリスト教精神」をもっと広い意味で「知恵」の問題と言ったほうが良いかと思います。知識と区別された知恵です。ラテン語で知恵とはサピエンティア(sapientia)であり、知識とはスキエンティア(scientia)です。英語で申しますと前者はwisdomであり、後者はknowledgeです。人間をホモ・サピエンス(知恵ある人、賢い人)と言いますが、このサピエンティアは、いわゆる科学技術によって便利な生活を追求するという意味ではなく、「生きる意味」「あるべき生き方」「本当の喜び」について追及し考えるものです。山梨英和大学の伝統的学風もまた、このサピエンティアの獲得を究極の目標としています。いや、果たして本当にそうだったのでしょうか。   過去の歩みを振り返ってみますと、山梨英和大学の礎となった山梨英和女学校は今から132年前に創設されましたが、この創設期にすでにこの知恵をキリスト教信仰から汲み取り、それによる若い人々の育成を実現しようとした事実は、驚くべき先見の目でありました。今も存続する英和と名のつく三つの大学があります。静岡英和、東京六本木の東洋英和、山梨英和がそれです。この三つの大学は、1880年代にはるばる太平洋を渡って日本にやってきたカナダ・メソジスト教会の初代宣教師たちの宣教活動に伴って、1880年代に矢継ぎ早にキリスト教女子学校が設立されたことにその礎があります。宣教師たちは福音宣教と共に、日本という異文化に対して開かれた姿勢をもっていました。山梨で最初の伝道活動をしたイビー宣教師より一年早く到着したジョージ・コクラン宣教師は、当時日本の儒学者として最高の地位である湯島の昌平坂学問所の「御儒者(おじゅしゃ)」であった中村正直が開設していた学塾「同人社」に招かれて、西欧近代思想を教授したのみでなく、聖書を教え日曜礼拝を守り、キリスト教の宣教に努めて、さらに、クリスマスの時に中村とその養子に洗礼を授けました。当時の知識人の多くが唱えていた「和魂洋才」(魂は大和魂、表面の衣は洋風)という言葉、いや、使い分け政策に反対して、こう主張しました。西欧の技術や文化の背後にもやはり西欧の魂と言うべき宗教があるはずであり、「洋魂」ともいうべきその宗教を知らなければ、技術的に「洋才」のみを学ぼうとするなら、その結果は西洋文化の偏った表面的受容に留まるだろうと警告し、「洋魂」としてのキリスト教に積極的な関心を抱いていたと言われます。彼は昌平坂学問所の御儒者(おじゅしゃ)になる直前の1858年には甲府の甲府学問所「徽典館」(きてんかん。山梨大学の前身)の学頭(学校長)を勤めました。   以上、本学の源流となる草創期の一端をご紹介しましたが、このように、西欧の技術・学問・文化の背後に、それを支えるキリスト教信仰があり、その更なる源流に聖書とイエス・キリストの神への証言があります。その証言には、秘められた神の知恵が盛り込まれています。ナザレ人イエスの生きた言葉の一つが、今朝のみ言葉であり、知恵ある生き方へと皆さんを招いています。   み言葉の16節以下には、当時も今も同じでありますが、イエスの斬新な振る舞いと言葉を聞き入れず、口汚く非難・中傷する者たちがいます。しかし、今ここに学ぶ皆さんがそれに付和雷同することなく、まっすぐに主イエスの呼び求めに応じて歩まれることを、神は願っておられます。   三つのこども園と女子中高と大学を結ぶ山梨英和(Yamanashi-Eiwa)学院のイニシアル入りの校章は、私も気に入っているメープルのデザインですが、それはカナダの国旗に配置されたカナダ楓を象徴しています。本学がカナダからの宣教によることを、感謝をもって答えている徴であります。正門入った前方の道路の両脇に、見事な光景の楓並木があります。しかしこの感謝の応答は、キリスト教がもはや外来宗教ではなく、私たちの日本の文化生活にとっても欠かせない価値あるものとして根付いていることを意味しています。中村が注目した「洋魂」という言葉を超えて、今や日本のこの地に土着化した「和魂」としてのキリスト教であります。いや、人の心を捉える真理は和洋を超えて、普遍的なのです。そしてこれは大きく大地に根を張り、青々とした若葉をなびかせているように成長していきます。   キャンパスでの学問と諸活動と学友との交わりの中心に、実に意義ある礼拝が設定されており、皆さんを真理探究のサピエンティアへと招いています。そのことを覚えて、喜ばしい大学生活を送っていただきたいと願います。               2020年度 チャペルメッセージ     「当たり前のことを喜び歌おう」  2021年1月25日(月) 山梨英和大学 宗教主任 洪 伊杓   「朝ごとに、あなたの慈しみを 夜ごとに、あなたのまことを述べ伝えることは 十弦の琴に合わせ、竪琴に合わせ 琴の調べに合わせて。 主よ、あなたは 御業を喜び祝わせてくださいます。 わたしは御手の業を喜び歌います。 主よ、御業はいかに大きく 御計らいはいかに深いことでしょう。」(詩編92編3-6節)   いつの間にか2020年度の授業も終わり、チャペルメッセージも最後になりました。新型ウイルスとともに過ごした前代未聞の世界的な災害を何とか乗り越えています。前期最後のメッセージにおいて、苦しい状況の中でもあきらめなかった『赤毛のアン』が、最後のシーンで書いた手紙も紹介しました。覚えていますか。   「たとえ私の足許に敷かれた道がどんなに狭くても、その道にはきっとしずかな幸せの花が咲いているに違いないと思います。(…)私は今、何の後悔もなく、安らぎに満ちてこの世の素晴らしさを褒め称えることができます。ブラウニングのあの一節のように。『神は天に在り、この世はすべてよし!』」   アンはイギリスの詩人ロバート・ブラウニングの「春の朝」(はるのあした、Pippa’s Song)という詩の最後の部分を引用しています。「年は春、時は朝、朝は七時、丘の斜面には真珠の露がおり、ひばりは空に舞い、かたつむりはサンザシに這う、神は天に在り、この世はすべてよし!」自然は自らの時によって動き、変化させます。ブラウニングの詩は平凡な日常を歌っていますが、そのような時間こそ神が与えて下さった恩寵の時であることを気づかせてくれます。日常が奪われる前には決して気づかなかった毎日、毎瞬間の大切さです。学校で友と会い、一緒に学び、話し合い、食し、聖書を読み、賛美する時間がどれほど奇跡的な瞬間だったかを…    コロナ禍の中で始まった2020年の春、韓国の有名な歌手イ・ジョクさんは新たな生活に窮している私たちのためにSNS上に「当たり前のこと」という歌を作って載せました。公式発表ではなく、ただ慰めと励ましを与えるために… しかし、ユーチューブを通して話題になったこの曲について、音源発売はいつなのかという問い合わせが殺到し、結局公式発売にまで至りました。最近舞台と観客を失った文化芸術の授賞式で、幼い俳優さんたちによって歌われ、再び深い慰めが与えられています。     「当たり前のこと」 (イ・ジョク, 2020)   その時は知らなかったんだ 僕たちが何を受けているのか 街を歩いて、友と会って、手をつないで、抱きしめてくれたこと 僕たちにはあまりにも当たり前のこと 最初は簡単だと思ってた あっという間にまた通り過ぎるって 春が来て、空が輝いて、花が咲いて、風がそよぐと 僕たちはまた戻れるって 僕達が生きてきた、平凡な日々の全てが どれだけ大事なのかを知ってしまったんだ 当たり前のように抱きしめて、当たり前のように愛した日 再び戻ってくるまで、精一杯笑顔でいよう 忘れてはいないでしょ、待ち望んでいるでしょ 信じ合って、分け合って、向かい合って、一緒に歌を歌っていた 僕たちにはあまりにも当たり前のこと 僕たちが生きてきた、平凡な日々の全てが どれだけ大事なのかを知ってしまったんだ 当たり前のように抱きしめて、当たり前のように愛した日 また戻ってくるよ、精一杯笑顔でいよう 冬が過ぎると、再び新しい「春の朝」を迎えることになるでしょう。すべての患難を乗り越え、平凡な日常が回復されていることを願います。2021年の「春の朝」には「当たり前のこと」を喜びながら、神のみ名をともに賛美しましょう。     &#8212;&#8212;&#8212;&#8212;&#8212;&#8212;&#8212;&#8212;&#8212;&#8212;&#8212;&#8212;&#8212;&#8211;   ご紹介した曲は、下記で聞くことができます。 #百想芸術大賞2020、『当たり前のこと』(イ・ジョク)、「朴・ボゴム」ナレーション        「風に吹かれて」  2021年1月22日(金) 山梨英和大学 宗教主任補佐 大久保 絹   「風は思いのままに吹く。あなたはその音を聞いても、それがどこから来て、どこへ行くかを知らない。霊から生まれた者も皆そのとおりである。」 (ヨハネによる福音書3章8節)   「風」は、新約聖書の原語ギリシア語でπνεῦμα(プネウマ)といいます。「霊」と訳すこともでき、その場合は神の力であるとされる聖霊を意味します。旧約聖書の原語ヘブライ語では、רוּחַ(ルーアッハ)といい、同様に「息、命、風」という意味があります。旧約聖書の創世記の天地創造の物語では、神は人を土から創り、その鼻にルーアッハを吹き入れることで命が与えられたと記され、神の「息」は命を与えるものであると示されています。   新型ウイルスが広がり、一日中マスクをつけ、人と話すことや物に触わることに注意を払っています。それだけでなく人前で大きく息を吸ったり、勢いよく息を吐いたりすることも控えるようになり、私たちは新しい生活様式を受け入れながら過ごしています。聖書には「息」と「命」の密接な関係が記されていますが、「風」もまた私たちを癒し、励まし、生かしてくれるものであることを実感する毎日です。部屋の窓を開け、風を取り込むと緊張が解けることがあります。また外へ出て澄んだ風を吸い込むと、体が内側から整えられるような思いがします。どこからともなく吹く、目に見えない「風」に私たちは慰められているように思えます。   不安な状況は続いていますが、このようなときだからこそ、「風」が地上を吹き渡ってやむことがないように、キリストの息吹が世界の隅々にまでゆき渡るように祈りたいと思います。そして主による平安が一人ひとりに与えられ、平和がもたらされることを互いに願いましょう。   ————共に祈りましょう———— キリストの平和が  私たちの心の すみずみにまで ゆき渡りますように キリストのいのちが 私たちの心の すみずみにまで ゆき渡りますように キリストの愛が 私たちの心の すみずみにまで ゆき渡りますように   この祈りは、『キリストの平和』の歌詞です。チャペルセンターのメンバーで歌った動画もご覧ください。     「安かれ」  2021年1月18日(月) 山梨英和大学 宗教主任 洪 伊杓   「こういうことを話していると、イエス御自身が彼らの真ん中に立ち、「あなたがたに平和があるように」と言われた。彼らは恐れおののき、亡霊を見ているのだと思った。そこで、イエスは言われた。「なぜ、うろたえているのか。どうして心に疑いを起こすのか。わたしの手や足を見なさい。まさしくわたしだ。触ってよく見なさい。亡霊には肉も骨もないが、あなたがたに見えるとおり、わたしにはそれがある。」(ルカによる福音書24章36-39節)   新型ウィルス感染症により厳しい状況が続き、この世を騒がしています。私たちの心はいつもになく不安と緊張に支配されています。感染したらどうしよう、感染させたらどうしよう、ちょっとした体の不調にも脅え、周りの目が気になります。状況が厳しくなればなるほど、平常心を保つことが容易ではなくなります。私たちはどのように心を落ち着かせ、保っていけば良いのでしょうか。   ルカによる福音書24章にはイエスの復活の場面が描かれています。キリスト教は12月にクリスマスを迎え、春を待ち、3月から4月にかけてイエスの復活(イースター)を祝います。イエスが十字架上での苦難を味わい、復活を果たされた時、弟子たちの真ん中に立ち「あなたがたに平和があるように」と言われました。師であるイエスの死に直面した弟子たちは恐怖と不安の中にありました。復活のイエスは彼らに向かって「あなたがたに平和があるように」と言われたのです。この言葉は「シャローム」と呼ばれるヘブライ語から来ています。恐れ、不安、緊張の中でうろたえる弟子たちに語った最初の言葉が「シャローム」でした。口語訳では、この言葉は「安かれ」と訳されています。キリスト教の「平和」を望む言葉は、「安かれ」と表現できるのです。では、「平和」とは何でしょうか。『キリスト教平和学事典』には次のように書かれています。   旧約においては出エジプト記に記された「イスラエルが神によってエジプトにおける奴隷状態から解放されたこと」、新約においては旧約の「捕囚後のメシア的平和の到来の希望とイエス・キリストの十字架と復活におけるその希望の成就」である。(336)しかし、そもそも「平和」という概念の意味は聖書中でも多岐にわたり、容易に「平和」を定義することはできない。まさに、聖書の言葉自体「その当時の戦争や不安定な社会情勢、不正義との取り組みにおいて生まれてきたものであり、聖書の中で語られる平和の概念もそれぞれの時代や社会状況の中で変化している」(335)と言える。(関西学院大学キリスト教と文化研究センター『キリスト教平和学事典』、教文館、2009年、335‐336.)   つまり、キリスト教において「平和」は戦争や不安定な社会情勢に相反する概念であるだけではなく、「それぞれの時代や社会状況の中で変化している」言葉だと言うのです。ここから戦争や社会情勢という目に見える状態だけではない、目に見えない人間の心の状態の回復を前提として「平和」が語られていることがわかります。   今、私たちが求める「平和」は心の安定であり、落ち着きではないでしょうか。安心して大学に通える、安心して友人に会える、人とコミュニケーションをとることができる…ここで聖書が語る「平和」をより味わうことができる讃美歌をご紹介します。讃美歌21の532番(旧『讃美歌』298番)の歌詞(2節)を読み、感じてみましょう。   やすかれ、わがこころよ、なみかぜ 猛るときも、 恐れも 悲しみをも みむねに すべて委ねん。 み手もて みちびきたもう のぞみの岸はちかし   復活のイエスが言われた言葉が心に響きます。安かれ…     &#8212;&#8212;&#8212;&#8212;&#8212;&#8212;&#8212;&#8212;&#8212;&#8212;&#8212;&#8212;&#8212;&#8211; ご紹介した讃美歌は、下記のYouTubeで聞くことができます。 讃美歌298番「やすかれわがこころよ」ア・カペラ https://www.youtube.com/watch?v=TCfxYChF7eA   「被災地の未来のために」祈り〜讃美歌298番 MCS MESSIAH CHORAL SOCIETY 2012年9月8日福島音楽堂大ホールを埋めた人々の涙の大合唱 https://www.youtube.com/watch?v=dX7ChiFfLFU       「善悪を知る木の実と命の木」  2021年1月15日(金) 日本基督教団 南甲府教会 高津 俊 牧師   「主なる神が造られた野の生き物のうちで、最も賢いのは蛇であった。蛇は女に言った。『園のどの木からも食べてはいけない、などと神は言われたのか。』女は蛇に答えた。『わたしたちは園の木の果実を食べてもよいのです。でも、園の中央に生えている木の果実だけは、食べてはいけない、触れてもいけない、死んではいけないから、と神様はおっしゃいました。』蛇は女に言った。『決して死ぬことはない。それを食べると、目が開け、神のように善悪を知るものとなることを神はご存じなのだ。』女が見ると、その木はいかにもおいしそうで、目を引き付け、賢くなるように唆していた。女は実を取って食べ、一緒にいた男にも渡したので、彼も食べた。二人の目は開け、自分たちが裸であることを知り、二人はいちじくの葉をつづり合わせ、腰を覆うものとした。その日、風の吹くころ、主なる神が園の中を歩く音が聞こえてきた。アダムと女が、主なる神の顔を避けて、園の木の間に隠れると、主なる神はアダムを呼ばれた。『どこにいるのか。』彼は答えた。『あなたの足音が園の中に聞こえたので、恐ろしくなり、隠れております。わたしは裸ですから。』神は言われた。『お前が裸であることを誰が告げたのか。取って食べるなと命じた木から食べたのか。』アダムは答えた。『あなたがわたしと共にいるようにしてくださった女が、木から取って与えたので、食べました。』主なる神は女に向かって言われた。『何ということをしたのか。』女は答えた。『蛇がだましたので、食べてしまいました。』主なる神は、蛇に向かって言われた。『このようなことをしたお前は/あらゆる家畜、あらゆる野の獣の中で/呪われるものとなった。お前は、生涯這いまわり、塵を食らう。お前と女、お前の子孫と女の子孫の間に/わたしは敵意を置く。彼はお前の頭を砕き/お前は彼のかかとを砕く。』神は女に向かって言われた。『お前のはらみの苦しみを大きなものにする。お前は、苦しんで子を産む。お前は男を求め/彼はお前を支配する。』神はアダムに向かって言われた。『お前は女の声に従い/取って食べるなと命じた木から食べた。お前のゆえに、土は呪われるものとなった。お前は、生涯食べ物を得ようと苦しむ。お前に対して/土は茨とあざみを生えいでさせる/野の草を食べようとするお前に。お前は顔に汗を流してパンを得る/土に返るときまで。お前がそこから取られた土に。塵にすぎないお前は塵に返る。』アダムは女をエバ(命)と名付けた。彼女がすべて命あるものの母となったからである。主なる神は、アダムと女に皮の衣を作って着せられた。主なる神は言われた。『人は我々の一人のように、善悪を知る者となった。今は、手を伸ばして命の木からも取って食べ、永遠に生きる者となるおそれがある。』主なる神は、彼をエデンの園から追い出し、彼に、自分がそこから取られた土を耕させることにされた。こうしてアダムを追放し、命の木に至る道を守るために、エデンの園の東にケルビムと、きらめく剣の炎を置かれた。 (創世記3章1-24節)   人が善悪を判別することができないのなら、罪を犯さないようにすることも難しいことです。だとすれば、最初の人アダムと女に食べるなと禁じた園の中央の木の実を食べたことを罪に問えるのでしょうか。   神さまはご自分に象(かたど)って人を創造されましたから、ご自分と同様に自由な行動を想定していたことでしょう。しかし、園の中央に善悪を知ることと生命を維持する能力を得る木の実があって、それらに近づくことを禁じていたことから、人にはこれらの能力を与えていなかったのでしょう。善悪の判断と生命の永続については神さまだけが持つ権限ということです。   禁じられていたことを行った結果を知らなければ、興味や抗えない欲求を抑える理由は乏しいものです。食べると死んでしまうと聞いているけれど、死ぬことが善いことか悪いことかすら判断できないのですから、蛇の恣意的な説明と、魅力的で美味しそうな木の実に賢くなるように唆(そそのか)されたならば、抵抗するのは難しかったでしょう。   禁断の木の実を食べた結果、神さまと人との関係が壊れ、命の木に近づかないように楽園から追放されました。こうして人は神の保護を離れて己の行為の善悪を識別し、過ちによる負債を背負うことになりました。しかし人は全てを見極められないので、過ちは終わることがなく、罪の縄目に縛られたままでした。   神さまは人間の行き届かない知識と能力によって過ちを犯さないように、律法と預言者によって導き、聖霊によって知恵を与えてくださいました。そして自ら人となられて世に来られて、正しい生き方を模範として示してくださいました。そのお方がイエス・キリストです。キリストの招きに応答して従う者には命の希望が与えられます。キリストがご自身を「命のパン」「まことのぶどうの木」と表明されたことは、楽園の中央にあったもう一本の木の実を意味しています。キリストはご自分に繋がる者を知恵と命によって生きる者としてくださいます。       「真の奇跡」  2021年1月8日(金) 山梨英和大学 宗教主任 洪 伊杓   まことに、イスラエルの聖なる方/わが主なる神は、こう言われた。「お前たちは、立ち帰って/静かにしているならば救われる。安らかに信頼していることにこそ力がある」と。しかし、お前たちはそれを望まなかった。お前たちは言った。「そうしてはいられない、馬に乗って逃げよう」と。それゆえ、お前たちは逃げなければならない。また「速い馬に乗ろう」と言ったゆえに/あなたたちを追う者は速いであろう。一人の威嚇によって、千人はもろともに逃れ/五人の威嚇によって、お前たちは逃れる。残る者があっても、山頂の旗竿のように/丘の上の旗のようになる。それゆえ、主は恵みを与えようとして/あなたたちを待ち/それゆえ、主は憐れみを与えようとして/立ち上がられる。まことに、主は正義の神。なんと幸いなことか、すべて主を待ち望む人は。(イザヤ書30章15-18節)   コロナ禍がより悪化し、大変な時期を送っています。世界の感染者はわずか1年で200万人、日本でも4000人近く亡くなりました。戦時下のように死の陰が蔓延している時、奇跡のようにワクチンと治療薬が作られることを人々は望んでいます。しかし現実は厳しいです。私たち一人一人が自分の生活を変化させ、互いに配慮して気を付ける努力をしなければなりません。トルストイが「皆が世の中の変化を望んでいるが、自らが変わる決断する人はいない」と語ったように、この世界の危機を乗り越えるためには各自の新たな覚悟が必要かもしれません。   さらに大きく考えると、エネルギーをむやみに使ったり、開発をして、地球環境を破壊するような欲望の生活習慣を根本的に変えなければなりません。このように努力しても、この事態を乗り越えるのは本当に難しいです。それと共に神様の全面的な回復への恵みが必要です。絶えず努力しながらも、私のできることは何もないということを悟ること。それがまさに信仰です。このような信仰を見つける時、神様は初めて私たちの中に宿られます。 私たち山梨英和学院を設立したメソジスト教会の創始者ジョン・ウェスレーが特に強調した「神人協同」、「聖化」という概念がまさにこれです。それこそ救いであり、新しい命の始まりです。だから神への信仰は、結果ではなく過程です。結果という目的に向かって果てしなく航海する過程です。   もしかすると、コロナ禍は科学技術文明が示して来た、まさに奇跡のような多様な発展に酔いしれ、神の恵みを忘却してしまった現代人に真の奇跡の意味を悟らせる時なのかもしれません。今日読んだイザヤ書を見ると、神を忘れ、堕落したイスラエルの民は神のみ旨を伝える預言者に向けて「真実を我々に預言するな。滑らかな言葉を語り、惑わすことを預言せよ!」(10節)と嘲弄しています。これは偽りの満足と偽りの命が溢れる現代世界を生きる私たちの愚かな姿と変わりません。すると神は「お前たちは、この言葉を拒み/抑圧と不正に頼り、それを支えとしているゆえこの罪は、お前たちにとって/高い城壁に破れが生じ、崩れ落ちるようなものだ。崩壊は突然、そして瞬く間に臨む」(12-13節)と警告しました。コロナ禍で一瞬に崩れた私たちの現代人のシステムと技術を示しているようなみ言葉です。そのような私たちに神は最後にこのようにおっしゃいます。「お前たちは、立ち帰って/静かにしているならば救われる。安らかに信頼していることにこそ力がある」(15節)今私たちは、毎瞬間、私たちに与えられた時と関係、生命そのものがどれほど大事か、そのすべては神が全面的に与えてくださった「奇跡」であることを喜び感謝しなければならないのではないでしょうか。そのような「敬神」の姿勢を持つ時、神からの御恵みと憐れみが私の心の中にも生まれると信じます。       「クリスマス礼拝」  2020年12月18日(金)   クリスマス礼拝の動画をご覧ください     司式 大久保絹 説教 宗教主任 洪伊杓    「この世に遣わされた方」 奏楽 五味恵美子 独唱 齋藤恵美 点火 深澤春香 ヴァイオリン 渡邉日向 献唱 グリーンチャペルクワイア    『清らに星澄む今宵』       「主の道を備えること」  2020年12月14日(月) 山梨英和大学 宗教主任 洪 伊杓   そこで、ヨハネはヨルダン川沿いの地方一帯に行って、罪の赦しを得させるために悔い改めの洗礼を宣べ伝えた。これは、預言者イザヤの書に書いてあるとおりである。「荒れ野で叫ぶ者の声がする。『主の道を整え、その道筋をまっすぐにせよ。谷はすべて埋められ、山と丘はみな低くされる。曲がった道はまっすぐに、でこぼこの道は平らになり、人は皆、神の救いを仰ぎ見る。』」  (ルカによる福音書3章3〜6節)   主イエスがお生まれになる前に、神が洗礼者ヨハネを送った理由は何でしょうか。それは主の道をそなえるためでした。今日のみ言葉の4節から6節はイザヤ書を引用し、洗礼者ヨハネの働きをこのように説明します。「主の道を整え、その道筋をまっすぐにせよ。谷はすべて埋められ、山と丘はみな低くされる。曲がった道はまっすぐに、でこぼこの道は平らになり、人は皆、神の救いを仰ぎ見る。」   有名な政治家や芸能人が来るとなれば、その道を前もって整え、広げておきます。人が移動する時でもそれほど準備するのに、神がこの地へ来られる時は、さらに真心をつくしてその道を準備しなければならないのではないでしょうか。   イザヤのこのお話は、イスラエルの民がバビロン捕虜から解放され、帰って来る時の姿を預言した話です。バビロンからイスラエルまで帰る道は「三日月地域」と呼ばれます。その道は三日月のように回って行かなければなりません。その中には広い砂漠があるからです。しかし、そこがたとえ砂漠でも神様と共に帰る栄光の道を、平坦に準備しなさいというお話です。主が来られる道に谷があればその場を補い、山があれば削って平坦にしなければなりません。曲がっている道はまっすぐにしなければならないというのです。   聖書は高速道路の工事のようなイメージで描かれていますが、重要なことは人の心が整えられなければならないということです。谷間のように低く暗い所で呻く貧しくて弱い者等は、暖かい服を着せてよくもてなしてあげなければなりません。山のように驕慢にそびえたっている部分は削って謙遜にさせなければなりません。曲がっている心は開いてあげなければなりません。傷を受けた人の心は慰められなければなりません。   新型ウイルスの第三波が猛威を振るっています。医療崩壊とともに経済的な打撃も皆が心配しています。不安の中にいる感染者とその家族、疲れている医療従事者たち、経済的な困難の中で苦しんでいる人々が沢山います。このような時代に再びイエス・キリストのご降誕を迎えます。この時期こそ、閉ざされた心を互いに慰めながら乗り越えることで、馬小屋で生まれる主イエスの誕生とその道を備えましょう。       「一緒に歌い、一緒に踊ろう!」  2020年12月11日(金) 日本基督教団 三浦きょうこ牧師   「耳のあるものは聞きなさい。今の時代は何にたとえたらよいか。広場に座って、ほかの者をこう呼びかけているこどもたちに似ている。 『笛を吹いたのに踊ってくれなかった。葬式の歌をうたったのに、悲しんでくれなかった。』 ヨハネが来て、食べ物も飲みもしないでいると、『あれは悪霊に取りつかれている』と言い、人の子が来て、飲み食いすると、『見ろ、大食漢で大酒飲みだ。徴税人や罪人の仲間だ』と言う。しかし、知恵の正しさはその働きによって証明される。」 (マタイによる福音書11章15〜19節)   毎年、クリスマス前の四週間・アドベントの第二週目に入ると、教会はイエスを迎える前の洗礼者ヨハネの役割を語ります。洗礼者ヨハネは荒れ野で、人々に罪の悔い改めを求め、清めの洗礼を授けた人です。マタイ福音書記者は、そのヨハネをイザヤの預言にあるように「イエス到来の道を備えた者」として描いています。イエスは今日の箇所で、群衆に向かって、洗礼者ヨハネを預言者エリアの再来だと言い、「耳」のある者は自分の言葉を聞くようにと促します。群衆はもちろん耳を持っていますが、耳が付いていても真理を聞けるものはわずかのようです。ヨハネが食べも飲みもしないで、緊迫したこの世に預言者として警告を発しても同調しません。イエスが共に食卓に着き、愛を語っても分かろうとしません。人々はイエスを、世の中が忌み嫌っている人たちの仲間だと決めつけるのです。クリスマスの本当の意味は、耳のある、目の見える人でないと分からないようです。   「広場にどっかりと座って、ほかの者をこう呼びかけているこどもたち」が、わたしには昨今のSNSで姿を隠しながら特定の人を誹謗中傷している人たちと重なって見えます。その他大勢の人たちの陰から自分の鬱憤を晴らしている人たちに、イエス様の愛はどうしたら届くのでしょうか。「一緒に踊り、一緒に歌う」そんな素直さをこどもなら持っているはずです。なぜこのこどもたちは、こんなにあまのじゃくでひねくれてしまったのでしょうか。わたしたちは赤ちゃんの姿を見ると思わず微笑んでしまいます。クリスマスに幼子の姿で世に現れた主イエスを思い起こし、ふと肩の力を抜いて、わたしたちも素直にこどもに戻って、今年のクリスマスは、ご一緒に救い主の訪れを喜びたいと思います。主イエスは間近におられます。       「アドヴェント音楽礼拝」  2020年12月7日(月)   オンラインアドヴェント音楽礼拝の動画をご覧ください。     2020年12月7日 アドヴェント音楽礼拝  司式 宗教主任 洪伊杓  奏楽 五味恵美子   編曲・解説 井上征剛 教授   ヴァイオリン演奏 渡邉日向(4年生)   曲目 「まぶえのかたえに」J.S.バッハ       ヴァイオリンソロ編曲 今回の動画はチャペルセンターで撮影しました。 前奏・後奏に使用したオルガンは、山梨英和短期大学時代から使われているKAWAIのリード式オルガンです。 現在も現役で美しい音を奏でてくれます。         「恵まれた者となる為の天からの知らせ」  2020年12月4日(金) 日本基督教団 日下部教会 山上清之牧師   六か月目に、天使ガブリエルは、ナザレというガリラヤの町に神から遣わされた。ダビデ家のヨセフという人のいいなずけであるおとめのところに遣わされたのである。そのおとめの名はマリアといった。 天使は、彼女のところに来て言った。「おめでとう、恵まれた方。主があなたと共におられる。」 (ルカによる福音書1章26〜28節)   イエス様の誕生を記念するクリスマスが近づいています。一人の幼児の誕生を、世界中が祝うのは、それが、自分の為のものでもあるからです。最初は、マリアへの祝福の知らせとしてクリスマスは始まりました。御子の誕生の、10か月ほど前の事になるのでしょう。絵画でも、受胎告知として、西欧ではよく知られていますね。しかし、結婚を前にしたマリアにとって、それは、命に関わる恐るべき知らせであって、決して単純な良い知らせではありませんでしたが、彼女は、その知らせを神からの良き知らせとして、しっかりと受け止め、信じて受け入れました。神様を信じたマリアを、全ての事から守り、幸いへと神様は導かれました。その結果、マリアの名は、今に至るまで、全世界の人々に知られ、天使の告げた通り、恵まれた女性として覚えられています。マリアは、ナザレという町に住んでいたようです。ナザレの町も、後のベツレヘムの村も、御子の誕生と結ばれた事によって、この時期、世界中に知られ、二千年前の御子の誕生を覚えて、祝福された地となっています。マリアであれナザレであれ、それらの名が知られ、輝くのは、主イエスが共におられたからです。クリスマスの輝きは、御子の輝きなのです。天使は、幸いな時の到来を、マリアに告げ、羊飼いたちに告げ、今も、全世界の人々、そして、あなたにも告げています。「おめでとう、あなたの為に、恵みの時が近づいている」と。暗いコロナ蔓延の知らせではなく、幸いに輝くクリスマスの知らせが、あなたに届き、あなたの人生にも祝福と輝きが満ちますように。「主があなたと共におられます。」       「待つ時間の喜び」  2020年11月30日(月) 山梨英和大学 宗教主任 洪 伊杓   ザカリアはそれを見て不安になり、恐怖の念に襲われた。天使は言った。「恐れることはない。ザカリア、あなたの願いは聞き入れられた。あなたの妻エリサベトは男の子を産む。その子をヨハネと名付けなさい。その子はあなたにとって喜びとなり、楽しみとなる。多くの人もその誕生を喜ぶ。(ルカによる福音書1章12〜14節)   昨日の主日からアドベント(待降節)が始まりました。アドベントはクリスマス(聖誕節)の前の4週間、すなわちメシアの誕生を待つ教会暦にのっとった期間です。それに合わせては本大学のクリスマスツリー点火祭も先週行われました。   私が育った故郷の家は電車の駅のすぐ側にありました。なので静かな夜には、いつも電車の音が聞こえました。誰かがこの電車に乗ってうちに来るのではないか、そんなことを考えながら漠然と待ち続け、興奮したことが思い出されます。実際に都会から親戚が遊びに来るという知らせを聞くと、待っているその時間は期待でいっぱいでした。幼い子供たちは早く大人になることを待ち望みます。そして、青年たちは自分のパートナーを待ち望み、自分の仕事の成就を待ち望みます。運動選手はチャンピオンになる栄光の瞬間を待ちます。待つ瞬間は息苦しくて長く感じますが、実は待つ時間こそが幸せなひと時です。むしろ目標が完成され、成した時にはむなしくなることさえあります。このように人間は希望によって生きる存在です。待つことのない人生は不幸です。何も待つことがない時、人生は無意味でむなしくなります。   今日のみことばをみると、ザカリアとエリサベトという夫婦が登場します。この二人は誠実な人間であったにもかかわらず、子供がなく、年をとっているという絶望的な状況でした。しかし、長い間絶え間なく祈ると、神は彼らに息子を与えてくださいました。その子は、後にイエス・キリストのご降誕を告げ知らせる預言者「洗礼者ヨハネ」になります。「女から生まれた 者のうち、ヨハネより偉大な者はいない」(ルカによる福音書7章28節)とイエスが誉めたその人です。「洗礼者ヨハネ」の働きは希望を失い絶望の中にいる人々とともに、メシアの誕生を待ち望みながら希望と勇気を与えることでした。   新型ウイルスの影響で、この世は笑顔と喜びを失っているような気がします。喜びと楽しみを失い、寂しさを感じています。しかし、今日のみことばの14節を見てください。「その子はあなたにとって喜びとなり、楽しみとなる。多くの人もその誕生を喜ぶ」と語っています。大変な状態が続いていますが、このような時こそ、この世に希望を与えるために生まれたイエス・キリストのご降誕を私たちも喜びながら待ち望みましょう。そして赤ん坊イエスと出会った瞬間、このように喜んで叫びましょう。「いと高きところには栄光、神にあれ、地には平和、御心に適う人にあれ」(ルカによる福音書 2章14節)        「惜しまず施す豊かさ」  2020年11月27日(金) 日本基督教団 峡南教会 森 容子牧師   「兄弟たち、マケドニア州の諸教会に与えられた神の恵みについて知らせましょう。彼らは苦しみによる激しい試練を受けていたのに、その満ち満ちた喜びと極度の貧しさがあふれ出て、人に惜しまず施す豊かさとなったということです。」(コリントの信徒への手紙Ⅱ 8章1~2節)   この手紙の筆者、使徒パウロは言います。「施し」こそは、神様から自分たちに与えられた貴い「恵み」であると。   ですが「施し」とは、渡す側にも受け取る側にも、微妙な気持ちが働き、なかなか難しいものだとも言われます。ある牧師が、3・11の救援募金を罹災教会へ直接手渡し、喜びの反応を皆に報告したいと出かけられた時、こう告げられたそうです。「先生が、恵まれた教会から、憐れで気の毒な教会へと、上から下へ献金を下されるお気持ちで来られたのならば、お受けできません。先生と私が逆の立場であったら、きっとご自分が受ける側であったろうと理解されてお渡し下さるなら、喜び感謝してお受けします。」と。牧師は金槌で頭を叩かれたようなショックを受けられ、猛反省されたそうです。   でも、その授受の際、神様に介在して頂くと、人と人の間に神の愛が成立します。「これは主の御心ですから、どうぞ」とへりくだってお渡しでき、「主の御心でしたら、有難く」と謹んで快くお受けできるのです。本当に「受け取って頂けて、感謝」なのですね。   また、それには、体験的に困窮の痛み悲しみを知り抜いている人たちこそが、他者の必要性に深く理解、共鳴し、惜しみない気持ちで、心行き届いた「施し」を行うことができる、その満ち満ちた喜びをまるで自分のこととして共有できる、とパウロは言うのです。   そのような、まことの「施し」とは、本来自分のものではない、この世で神様からお預かりしているものを、困窮している他者の必要に応じて喜んで提供させて頂けることです。しかしながら、自分の持てるもの全てが、神様から与えられたもの、お預かりしているものと自覚するようになるのは、そうたやすいことではありません。   が、そうした信仰に目覚めますと、あなたの人生の風景が変わってゆきます。生き方、考え方、価値観、目指す方向性が変わってゆくのです。そして、素晴らしい出来事が、主によって、あなたの前に次々と切り開かれてゆきます。「人に惜しまず施す豊かさ」を心から実感し、その恵みを感謝してお受けできるようになるのです。   そして、互いにとって、愛する兄弟姉妹が、誕生するでしょう!       「生かされている恵みに感謝」  2020年11月20日(金) 日本基督教団 韮崎教会 小島 仰太牧師   「いつも喜んでいなさい。絶えず祈りなさい。どんなことにも感謝しなさい。これこそ、キリスト・イエスにおいて、神があなたがたに望んでおられることです。」 (テサロニケの信徒への手紙一5章16~18節)   今の私たちの生活は、コロナウイルスの感染に対する恐れと不安に支配されています。思い起こせば、4月を過ぎたあたりから、私たちの日常は大きく変わりました。「当たり前」が「当たり前」じゃなくなりました。不自由なことばかりです。   そんな私たちですから、「いつも喜んでいなさい。絶えず祈りなさい。どんなことにも感謝しなさい。」という聖書の御言葉を素直に聞くことができません。正直、無理だと思ってしまう。でも、一日が始まり一日が終わる、この日常はコロナ禍の前も今も変わりません。朝になると目が覚めて、それぞれの一日を過ごし、夜には眠りにつくという生活は変わることなく続いています。なぜならば、私たちが生きているということは「当たり前」ではないからです。   人間は、創造主なる神さまが造られた被造物の一つであるということを聖書は伝えています。私たちは、神さまによって命を与えられて生かされている、神さまに依らなければ生きられないのです。   私たちは、今、コロナ禍の最中にあっても神さまに生かされています。神さまは、今、この時も、私たちに生きてほしいと望んでおられます。誰も経験したことがない困難なときだからこそ、どう生きるかということを真剣に考えて、これから先、何があっても、与えられた命を大切に生きる一人一人になってほしいと願っておられるはずです。   そのような神さまの御心を知るならば、「いつも喜んでいなさい。絶えず祈りなさい。どんなことにも感謝しなさい。」という聖書の御言葉を素直に聞くことができるのではないでしょうか。恐れと不安に駆られながらの毎日ですが、何とか生活できていることは嬉しいことです。感染状況や飛び交う情報に迷い、惑わされ、右往左往してしまう毎日ですが、いつも神さまに心を向けて祈ることを忘れなければ、どんなことがあっても、喜び、感謝して、一日一日、神さまから与えられている命に生きることができるはずです。         「オンライン 音楽礼拝」  2020年11月16日(月)   オンライン音楽礼拝の動画をご覧ください。 ご一緒に賛美しましょう。     曲目 「虹のやくそく」   作詞・作曲 川上盾    グリーンチャペルクワイア    チャペルセンター教職員       「神の愛」  2020年11月13日(金) 日本基督教団 山梨教会 及川 信牧師   「このように、わたしたちは信仰によって義とされたのだから、わたしたちの主イエス・キリストによって神との間に平和を得ており、このキリストのお陰で、今の恵みに信仰によって導き入れられ、神の栄光にあずかる希望を誇りにしています。そればかりでなく、苦難をも誇りとします。わたしたちは知っているのです、苦難は忍耐を、忍耐は練達を、練達は希望を生むということを。希望はわたしたちを欺くことがありません。わたしたちに与えられた聖霊によって、神の愛がわたしたちの心に注がれているからです。実にキリストは、わたしたちがまだ弱かったころ、定められた時に、不信心な者のために死んでくださった。正しい人のために死ぬ者はほとんどいません。善い人のために命を惜しまない者ならいるかもしれません。しかし、わたしたちがまだ罪人であったとき、キリストがわたしたちのために死んでくださったことにより、神はわたしたちに対する愛を示されました。それで今や、わたしたちはキリストの血によって義とされたのですから、キリストによって神の怒りから救われるのは、なおさらのことです。敵であったときでさえ、御子の死によって神と和解させていただいたのであれば、和解させていただいた今は、御子の命によって救われるのはなおさらです。それだけでなく、わたしたちの主イエス・キリストによって、わたしたちは神を誇りとしています。今やこのキリストを通して和解させていただいたからです。悪人にも善人にも太陽を昇らせ、正しい者にも正しくない者にも雨を降らせてくださる」 (ローマの信徒への手紙5章1-11節)   今年は新型コロナウイルスが世界中を席巻し、大学の講義も前期はリモート形式で行われてきました。教師と学生は互いの顔を見ることが出来ず、学生同士も直に交わることが出来なかったのです。未だに様々な制約を受けています。   ローマの信徒への手紙5章は語ります。苦難は忍耐を、忍耐は練達を、練達は希望を生む、と。そして「希望はわたしたちを欺くことがありません」と言うのです。何故か?この手紙の書き手であるパウロは、こう言います。 「わたしたちに与えられた聖霊によって、神の愛がわたしたちの心に注がれているからです。」   しかし、「愛」とは何でしょう。私たちは、愛されるための能力を身に着けようと努力します。しかし、それは裏を返せば、そういう能力がなければ自分は人から愛されないと思っていることでもあります。つまり、「存在そのもの」ではなく、「能力」が評価されるという考え方です。そして能力が人から評価されない時、自分は価値のない人間だ、生きている意味がないと思うものです。   「苦難」とは、突き詰めていけばそこに行き着くでしょう。それは、何の能力もない自分は誰からも見向きもされない。自分はたった独りだ、ということです。そう思う時、私たちは生きていく気力を無くしていきます。将来に希望が持てないからです。   しかし、人間の命は人間が造ったのでしょうか。創造者なる神が造ったのです。神は存在に優劣をつけたり、評価したりしません。神様は存在を愛するが故に、各自に与えられた能力をフルに生かして欲しいと願っておられるのです。パウロは、自分の存在を愛し、何処までも共に生き、なすべきことを教えてくださる神様がおられることを知って欲しいのです。そこに「神の愛」があるのです。その愛は、敵をも神と共に生きる人間にするために、ご自身を十字架に捧げたイエス・キリストを知ることによって分かる。パウロはそう言っているのだ、と思います。         「オンライン 音楽礼拝」  2020年11月9日(月)   オンライン音楽礼拝の動画をご覧ください。 歌声に耳を傾け、共に礼拝を守ることができましたら幸いです。     曲目 「アメイジング グレイス Amazing Grace 」   イギリス民謡  神坂真理子編曲   「永遠の神の都 The Holy City」  F. E. WEATHERLY作詞   STEPHEN ADAMS作曲  中田羽後訳         「江戸しぐさ‥『三脱の教え』」  2020年11月6日(金) 日本基督教団 市川教会 土橋 誠牧師   「父は悪人にも善人にも太陽を昇らせ、正しい者にも正しくない者にも雨を降らせてくださる」(マタイによる福音書 5章45節b) 皆さんは「江戸しぐさ」という言葉を耳にしたことはないでしょうか。その「江戸しぐさ」の中に「三脱の教え」というものがあります。人との付き合い方を教えた言葉です。この「三脱の教え」では初対面の人に職業、学歴、年齢(つまり地位、経歴、身分や肩書など)を問うてはならないとされていました。こうしたことを初対面の人に尋ねるのは、江戸っ子として「粋」(いき)ではなかったということです。   「三脱の教え」は商家の日常の場面でも実行されていたようです。店先で挨拶するときに、主人が「おはよう」と言ったら番頭や丁稚も「おはよう」と言葉を返せばよく、「おはようございます」と返す必要はありませんでした。逆に番頭や丁稚が「おはようございます」と主人に挨拶したら、主人も「おはようございます」と挨拶の言葉を言わねばなりませんでした。これは「三脱の教え」が生活の中で生きていた証しです。   どのような人でも神様から命を与えられた人間です。その人を私たちがそれぞれの立場や考え方で偏った判断をしてはなりません。江戸時代の「三脱の教え」を心にしながら主イエスの御言葉を心に受け止めるのも良いのではないでしょうか。主イエスの御言葉を生きようとする人は「粋」(いき)と言うことになりますね。         「もっと大きな業を行う」  2020年10月26日(月) 山梨英和大学 宗教主任 洪 伊杓   「わたしが父の内におり、父がわたしの内におられると、わたしが言うのを信じなさい。もしそれを信じないなら、業そのものによって信じなさい。はっきり言っておく。わたしを信じる者は、わたしが行う業を行い、また、もっと大きな業を行うようになる。わたしが父のもとへ行くからである。」(ヨハネによる福音書 14章11〜12節)   「Love yourself」。防弾少年団(BTS)が2018年9月23日、ニューヨーク国連総会で行った演説のキーワードです。メイン・タイトルは「世界中の若者たちへ」であり、副タイトル「無限の可能性を秘めた世代」(Generation Unlimited)でした。最近の新曲は米ビルボードのシングルチャートで1位を記録し、相変わらず全世界的な人気を得ています。一体何が世界の人々の心を魅了するのでしょうか。国連での演説でリーダーのRMはこのように語りました。   「僕たちの初期のCDアルバムのイントロに『9歳か10歳のとき 僕の心臓は止まった』という歌詞があります。振り返れば、他人が僕のことをどう思っているか、どう見えるかを、心配し始めたのが、その頃だったと思います。夜空や星を見上げて空想することをやめ、他人がつくりあげた型に自分を押し込もうとしていました。自分の声を閉ざし、他人の声ばかり聞くようになりました。(…)心臓は止まり、目は閉ざされました。(…)名前を失い、幽霊のようになりました。でも、(…)自分の中で小さな声がしました。『目を覚ませ!自分自身の声を聞くんだ』。(…)僕たちは自分自身を愛することを学びました。だから今度は『自分自身のことを話そう』。あなたの名前は何ですか?何にワクワクして、何に心が高鳴るのか、あなたのストーリーを聞かせてください。あなたの声を聞きたい。あなたの信念を聞きたい。あなたが誰なのか、どこから来たのか、肌の色や ジェンダー意識は関係ありません。ただ、あなたのことを話してください。話すことで、自分の名前と声を見つけてください。」   旧約聖書の創世記1章27節を見ると、「神は御自分にかたどって人を創造された。神にかたどって創造された」と記されています。2回も繰り返して私たち人間は神にかたどって創造されたと強調されます。これを神学では「神の像」(Imago Dei、image of God)と呼びます。これは目、鼻、口、顔などが似ているということでしょうか。いいえ。神のみ旨、み心、み名のような目に見えない神の姿を意味するのです。心の中に神を受け入れ、神と共に生きる私たちは、神のような尊い存在であると言えます。すなわち、私たちの人格と内面が神の姿を現さなければなりません。しかし私たちはRMが指摘したように、外見や評判など表面的なものがすべてだと勘違いしたり、自らの真の姿、無限な可能性を忘れてしまいます。   今日読んだみ言葉において、イエスは「父の内におり、父がわたしの内におられる」と語っています。人間としてこの世に来られたイエスは、神と一体になり「神の像」を現わしました。しかしイエスは、自分の業を見て信じる人は、「わたしが行う業を行い、また、もっと大きな業を行うようになる」と、私たちに勇気を与えてくださいます。自らを愛することができないのに、他者を、隣人を愛することが可能でしょうか。「Love one another」、「Love for Others」(隣人愛)を行う前に「Love yourself」が求められます。これは結局、自分の中に「神の像」を回復すること、つまり「敬神」することです。BTSのメッセージは結局、山梨英和大学の校訓「敬神・愛人・自修」を一言でまとめているのです。これを胸に刻む時に、私たちはイエスよりも「大きな業を行う」ことができると。先日、2020年9月23日、BTSは再びニューヨークの国連本部に訪問しました。リーダーのRMは、コロナ禍で苦しんでいる世界の人々に向けてこのように語りました。「未来に夢を見よう。人生は続いていく。」   「世界中の若者たちへ」 BTS防弾少年団が国連総会で行ったスピーチ(動画、全文) #GenerationUnlimited(無限の可能性を秘めた世代)  【2018年9月24日  ニューヨーク発】 https://www.unicef.or.jp/news/2018/0160.html         「ステキな礼拝?」  2020年10月23日(金) 日本基督教団 愛宕町教会 宍戸 俊介牧師   「 いかに楽しいことでしょう 主に感謝をささげることは いと高き神よ、御名をほめ歌い 朝ごとに、あなたの慈しみを 夜ごとに、あなたのまことを述べ伝えることは 十弦の琴に合わせ、竪琴に合わせ 琴の調べに合わせて。」 (詩編92編2~4節)   おはようございます。本当はチャペルの礼拝で皆さんとお目にかかりたいのですが、感染症対策のため、ご一緒に礼拝できず残念です。でも、しばらくの間、聖書の言葉に耳を傾けてみようと思います。旧約聖書の詩編92編は、こんな風に始まります。   2 いかに楽しいことでしょう    主に感謝をささげることは   いと高き神よ、御名をほめ歌い 3 朝ごとに、あなたの慈しみを  夜ごとに、  あなたのまことを述べ伝えることは 4 十弦の琴に合わせ、竪琴に合わせ  琴の調べに合わせて。   ――「いかに楽しいことでしょう」と始まっています。この「楽しい」と訳されている言葉は、原文では文頭に置かれていて、この文字を辞書で引くと、「あらゆる領域において無条件に良い」と説明されています。   ですからこれは、ただ「楽しい」だけではなくて、「なんて素晴らしいのだ!」とか、「なんて素敵なの!」という風に訳しても良いのです。   しかし、いったい何が素敵で素晴らしいのでしょうか?――すぐ後にこう続きます。    主に感謝をささげることは この「感謝する」という言葉は、別に訳すと「賛美する」とも訳すことができる言葉です。感謝して賛美すること――つまり、神様を礼拝することがここで考えられています。神様を礼拝するのは、とても素敵な素晴らしいことだと、この詩は歌っているのです。   さて、神様を礼拝するって、そんなに素敵なことなのでしょうか?礼拝は大事ですと言う人はいても、礼拝が素敵で素晴らしい!という思いを持てるでしょうか。この詩人は、どうして神様を礼拝することが嬉しい素敵なことだと思うのでしょうか?   2節の終わりから3節にかけて、神様に感謝をささげる礼拝がこんな言葉で言い直されています。  いと高き神よ、御名をほめ歌い   3 朝ごとに、あなたの慈しみを  夜ごとに、  あなたのまことを述べ伝えることは。   ――神様の「御名」をほめたたえ、神様の「慈しみ」と「まこと」を思い出して語ることが、本当に嬉しい素敵なことだと、この詩は言っています。   チャペル礼拝の喜びはどこにあるのでしょうか。讃美歌が歌えることでしょうか。そういうこともあるかも知れません。でも、もしメッセージがさっぱり分からなかったり、聞いて分かっても中身がないと思ってしまったら、つまらなく感じることでしょう。   礼拝の楽しみは、聖書を通して神様が語りかけてくださる御言葉を、わたしたちが聞けるところにあるのではないでしょうか。   私たちは生活する中で、たくさんの失敗を繰り返しながら生きています。でも、「君にはそれでも、ここからの道が備えられているよ。ここからもう一度歩んで行って良いよ。わたしがいつも見守っているよ」という神様の御言葉を聞くことができれば、きっとわたしたちは、慰められ、勇気を与えられて、今日の生活に向かうことができるのではないでしょうか。   チャペルでは、聖書の言葉を通して、神様が御言葉を語りかけてくださいます。あなたの今日が、神様に愛されている日であることを知らせてくれる言葉が、聖書からいつも語られています。チャペルでの礼拝が再開されて、皆さんと一緒にそんな神様の御言葉に耳を傾けられる日が来ることを、楽しみにしています。       「オンライン 音楽礼拝」  2020年10月19日(月)   オンライン音楽礼拝の動画をご覧ください。 パイプオルガンの音色を聞きながら共に礼拝を守ることができましたら幸いです。     曲目 「主よ、人の望みの喜びよ」J.S.バッハ    「イエスよ、我が喜び」J.G.ヴァルター  ※1,2,5,7,8を演奏       「心に愛の灯を」  2020年10月16日(金) 山梨英和大学 クワイア指揮者 深澤 由美子   「第二も、これと同じように重要である。『隣人を自分のように愛しなさい。』」(マタイによる福音書22章39節)   神様の御導きと多くの方との御縁で、10月よりグリーンチャペルクワイアと共に活動を許されたことに感謝致します。   先日クワイアメンバーに「貴女達の特権(強み)は、どこにあると思いますか?」と尋ねてみました。数多くある中で私は「若さ・可愛さ・そして張り」だと伝えました。其々の年代で、その時の可愛らしさがありますが、10代20代の若葉の様な可愛らしさには、眩しさが感じられます。そして何事にも恐れず、前に突き進む若さと、はつらつとした張りのある声。3つの特権を最大限に活かして、歌ってほしいと伝えました。   しかしその反面「経験の少なさ」という弱点もあります。今は、全ての事が日進月歩で、指一本で済まされてしまう世の中です。もっと体温で感じなければならない事があると思います。沢山の事に興味を持ち、目・耳・鼻・肌そして心で感じ取ってほしいと強く願います。   私は今まで、歌うことに、とても助けられてきました。歌は心を守り、精神を鍛えてくれます。そして何より、自分の声で、人様のお役に立つ事ができる喜びは、お金では得ることのできない、貴重な経験です。これらの経験が、自分を成長させてくれます。 また、人間には、喜怒哀楽という、素晴らしい感情があります。バランスの取れた比率となるよう、私達は日々、よき言葉・よき教えに触れ、今自分が生かされていることに感謝し、心の免疫力を高めていかれたらと思います。   本日の聖句は、自分を見失いそうになった時・疎外感を覚えた時・初心に戻りたい時に拝読しています。自分がこの世の中に必要な存在であること・自分を大切にすること・仲間を愛することを教えて下さいます。多くの人や物と出会う事で、愛という明かりが、一人一人の心の中に灯りますように。 最後にウクライナの民話『小さい白いにわとり』をご紹介したいと思います。この民話から何を感じ、自分ならどうするか?自分と向き合う時として頂けたら幸いです。     ウクライナの民話『小さい白いにわとり』  『小さい白いにわとり』       「ダニエルの祈りのように」  2020年10月12日(月) 山梨英和大学 宗教主任 洪 伊杓   「ダレイオス王は、その書面に署名して禁令を発布した。ダニエルは王が禁令に署名したことを知っていたが、家に帰るといつものとおり二階の部屋に上がり、エルサレムに向かって開かれた窓際にひざまずき、日に三度の祈りと賛美を自分の神にささげた。」(ダニエル書 6章10〜11節)   神のみ旨に従わず、自らの欲望に従って生きたユダ王国は結局滅亡します。今日共に読んだダニエル書の最初の場面は「バビロンの王ネブカドネツァルが攻めて来て、エルサレムを包囲した。主は、ユダの王ヨヤキムと、エルサレム神殿の祭具の一部を彼の手中に落とされた。」(ダニエル書 1章1〜2節)という内容から始まります。神から与えられた領土、主権、民はすべてバビロニア帝国の支配の下に入り、ユダヤ人は捕虜となって不慣れなバビロニアの地に囚われの身として連行されました。神はエルサレム神殿に居られると信じていたイスラエルの民は、捕虜になってからは神殿に行くことさえできなくなりました。これまでとは全く異なる現実と厳しい生活が待っていました。新型ウイルスによって出来ないことが増えた生活を送る今の私たちのように…。   バビロニア帝国はユダヤ人に彼らの文化や信仰を捨てさせ、帝国の民として過ごさせようと努力しました。そのため、ユダヤ人の様々な慣習を規制しました。そこで、ユダヤ人の中で最も賢く、神から与えられた知恵を持つダニエルという青年がターゲットになりました。帝国の協力者として利用するため、彼の信仰を諦めさせようとしたバビロニアの試みに彼は抵抗しました。彼は神殿に足を運べない現実にもかかわらず、毎日三回、エルサレムの神殿の方向を眺めながら、跪き、神に祈りました。エルサレムの神殿で信仰の友たちと共に礼拝した時を思い出しながら、自らのアイデンティティを守り続けました。空間的には離れていても、精神的、霊的にはつながっているということを証する祈りでした。   ダニエルは「王が禁令に署名したことを知っていたが」、それにもかかわらず祈ったと記されています。獅子の窟に入る刑罰が待っていました。しかし彼は「今日わたしが命じるこれらの言葉を心に留めなさい」(申命記 6章6節)という聖句のように、神のみ旨を忘れないために、どこに置かれていても、神への祈りをやめてしまうことはありませんでした。この経験から神はエルサレム神殿のみならず、私たちがいるどこにでも共におられるという信仰が芽生えたのです。旧約聖書が執筆され、ユダヤ教、そしてキリスト教の経典である聖書が書き始められたのもこの時期です。   対面授業が再開され、少しずつ会いたかった友や教職員と会えるようになりました。しかし、相変わらず顔と顔を合わせて集い、話しをすることは難しい時期です。山梨英和大学から海外に派遣された留学生や、山梨英和大学に来ている海外からの在学生たちも皆が不慣れな環境で、家族とも会えない不安な時間が長くなっています。しかし、バビロニアにおけるダニエルと共にいてくださった神が、私たちの側にもおられるということを覚えながら、この大変な時期を乗り越えたいと思います。   写真出典 http://archive.constantcontact.com/fs087/1101491639439/archive/1107994283034.html        「神のなさる事は、時にかなって皆美しい」  2020年10月9日(金) 山梨英和大学 オルガニスト 五味 恵美子   「何事にも時があり 天の下の出来事にはすべて定められた時がある。 生まれる時、死ぬ時 植える時、植えたものを抜く時 殺す時、癒す時 破壊する時、建てる時 泣く時、笑う時 嘆く時、踊る時 石を放つ時、石を集める時 抱擁の時、抱擁を遠ざける時 求める時、失う時 保つ時、放つ時 裂く時、縫う時 黙する時、語る時 愛する時、憎む時 戦いの時、平和の時。 人が労苦してみたところで何になろう。 わたしは、神が人の子らにお与えになった務めを見極めた。神はすべてを時宜にかなうように造り、また、永遠を思う心を人に与えられる。それでもなお、神のなさる業を始めから終りまで見極めることは許されていない。」(コヘレトの言葉3章1〜11節)   私はこの10月から、チャペルセンターのオルガニストとして働く場を与えられました。同窓生として、このような形で再び門をくぐり、ご奉仕させていただけます事を大変嬉しく思います。   今日引いた聖書の言葉は、「生まれる時、死ぬ時、」すなわちこの世界の、又人間の一生に関わる事すべては、神様によって定められている。そして、その神様のなさる業を始めから終わりまで私達人間には見極める事は出来ない。という事が書かれている箇所です。   私は高校生の時に、突然の病により自分の思い描いていた路に進む事が叶わなくなりました。それまでは、進路は自分の決断によって、そして努力によって決まっていくのだろう。と考えいました。しかし幾ら自分が強く望んでも叶わない事がある事を思い知らされたのです。   退院時に担当の医師が、「少し太った方が良いよ」と打ったホルモン注射の副作用で、突然声がオクターブ以上低くなってしまったのです。大学受験の準備でお世話になっていた声楽の先生に勧められた病院を回りましたが、検査の後母だけが診察室に呼ばれ、回復の見込みは無い事を告げられました。   幼い頃から教会学校に通っていた私は、牧師の薦めもあり、山梨英和短期大学に進学し、その年のクリスマスに洗礼を受けました。   私の思いと、神様の御心は違うものでした。しかし、信仰を与えられ、沢山の恵みの中で生かされてきました。弱い私を神様はとらえて下さり、離す事なく、「音楽が好き」という賜物を与えてくださり、それによって奉仕する場所を与え続けて下さいました。この全ての「時」が、神様によって定められていたのです。この度、チャペルセンターのオルガニストとして働く事が許されました。その事実を喜びと感謝を持って受け入れ、皆さまと共にグリンバンクホールで礼拝を捧げられます日が一日も早く整えられますように、と祈っています。     「謙遜な悔い改めの時」  2020年10月5日(月) 山梨英和大学 宗教主任 洪 伊杓   「ガドはダビデのもとに来て告げた。「七年間の飢饉があなたの国を襲うことか、あなたが三か月間敵に追われて逃げることか、三日間あなたの国に疫病が起こることか。よく考えて、わたしを遣わされた方にどうお答えすべきか、決めてください。」ダビデはガドに言った。「大変な苦しみだ。主の御手にかかって倒れよう。主の慈悲は大きい。人間の手にはかかりたくない。」主は、その朝から定められた日数の間、イスラエルに疫病をもたらされた。ダンからベエル・シェバまでの民のうち七万人が死んだ。(…)そこに主のための祭壇を築き、焼き尽くす献げ物と和解の献げ物をささげた。主はこの国のために祈りにこたえられ、イスラエルに下った疫病はやんだ。」(サムエル記下 24章13節〜15節、25節)   9月28日、全世界の新型ウイルスによる死亡者が100万人を超えました。そして先週の10月2日には、米国大統領も感染したとのニュースが流れ、世界を驚かせています。死亡者100万人の中でも米国はそのうちの最も多い30万人を占めます。マイク・ライアン世界保健機関(WHO)緊急対応局長は、9月25日に「全世界が協力しないと死亡者200万人が現実として近づいて来る可能性が高い」と発言しました。メルボルン大学のエレン・ロペス教授は「全世界の実際の死亡者はすでに180万人であり、今年の年末になると300万人に至る可能性もある」と述べています。死亡者の増加速度も一層早くなっているこの世は今後どうなるのでしょうか。   イスラエルの代表的な指導者、ダビデ王。彼の晩年には感染病の流行で7万人が命を失いました。ダビデはその原因が自らの霊的な高慢さのためだと痛感し、預言者ガドの忠告を受け入れ、エルサレムで悔い改めの儀式を捧げました。結局、神は天使の裁きの剣を退かせ、その災いを終わらせました。この出来事は中世ヨーロッパの人口3分の1を減らしたペストや、現在私たちが経験している新型ウイルスという災いのようなものではなかったかと思います。   ダビデはいったい何を悔い改めたのでしょうか。どのような懺悔をしたために、神は災いを終わらせることで応じたのでしょうか。長く王として君臨したダビデはイスラエルにおける「130万の大軍」を誇りました。効果的な徴兵のためにダビデは「人口調査」を行いました。しかし、ダビデ一人の罪のために神がこれほどまでお怒りになったとは解釈しにくいという意見が聖書神学界では支配的です。傲慢になり、神の愛を忘却したのはダビデだけではなく、すべてのイスラエルの民でした。聖書も「主の怒りが再びイスラエルに対して燃え上がった」(サムエル記下 24章1節)と語っているからです。例えば、アブサロムの反乱(同書15-18章)やシェバの反乱(同書20章)などで多数のイスラエルの民が関連し、神への罪を犯していました。皆が神を忘れ、自分の力を信じる優越感に溢れていました。   しかし民全体を代表するダビデは 、責任のある指導者としての姿を見せていました。指導者と民は一体だったからです。ダビデは、言い訳の代わりに悔い改めの告白を、逃亡の代わりに神の前に謙虚に跪きました。今日の箇所17節でダビデは神に「御覧ください、罪を犯したのはわたしです。わたしが悪かったのです。この羊の群れが何をしたのでしょうか。どうか御手がわたしとわたしの父の家に下りますように」と訴えています。ダビデ王の時代における疫病の本当の原因はわかりません。しかし、ダビデからはじまった神の前での懺悔と反省という謙遜な姿勢こそ、疫病を終わらせる要因になった事が確認できます。現代を生きる私たちはどのような姿でしょうか。今、私たちが取るべき姿勢は?この一週間、この事を考える時間を持ちたいと思います。     「主はあなたを支えてくださる」  2020年10月2日(金) 山梨英和大学 宗教主任補佐 大久保 絹   「思い煩いは、何もかも神にお任せしなさい。神が、あなたがたのことを心にかけていてくださるからです。」 (ペトロの手紙 一 5章7節)   後期がはじまり、学生たちがキャンパスに集っています。それほど多くはありませんが、正門から続く楓の並木道を講義棟へ向かって歩く姿。途中で友人と出会い楽しそうにおしゃべりする声。教室に入り授業に備える様子。前期には見たり聞いたりできなかった日々が戻りつつあることを、とても嬉しく思います。   このような日常的な光景に触れ、私は、旧約聖書のはじめにある『創世記』の天地創造の物語を思い浮かべました。神は天と地、海、二つの大きな光る物と星、魚と鳥、獣と家畜と土を這うものを創造しました。そして最後につくったものは人間でした。その人間は、神によって命の息を吹き入れられ、生きる者となりました。大学も神によって命の息を吹き入れられ、キャンパスに学生が集い、再び学びの場が創造されたように感じます。山梨英和女学校の校長(第10代・12代)を務めたグリンバンク先生は、「人生の『真の道』を発見する場所が学校である」と語りましたが、思い煩いの只中にある今こそ、学生一人一人の気づきが真の道へと導かれるよう祈っています。   今日の聖書の言葉、「思い煩い」と訳されているギリシア語の原語「メリムナ」には、「心配、心痛、悩み、関心の対象(名誉、富、野望など)、空想」といった意味があります。私たちはこれらを抱え込むことがありますが、ペトロはすべて神に委ねるよう勧めています。神が私たちを心にかけていてくださるゆえ、何も心配する必要はないと聖書には書かれています。   キリスト教の礼拝では「とりなしの祈り」を献げます。とりなしの祈りとは、隣人のために祈る祈りです。思い煩う人が力づけられることを神に願う祈りです。私たちはしばしば不安によってバランスを失うことがありますが、共に過ごす友のために、支え励ましてくれる家族のためにとりなしの祈りを献げ、私たちを創られた神にすべてをお任せし、信頼して過ごしたいと思うのです。   講義棟の中央にあるグリンバンクホールに入ると、グリンバンク先生の写真が飾られています。この場所に多くの学生や教職員が集められ、礼拝を守り、とりなしの祈りを献げられる日が備えられることを願っています。     グリンバンクホールとホール内に飾られているグリンバンク先生の写真     「互いに忍耐する平和のきずな」  2020年9月28日(月) 山梨英和大学 宗教主任 洪 伊杓   「そこで、主に結ばれて囚人となっているわたしはあなたがたに勧めます。神から招かれたのですから、その招きにふさわしく歩み、一切高ぶることなく、柔和で、寛容の心を持ちなさい。愛をもって互いに忍耐し、平和のきずなで結ばれて、霊による一致を保つように努めなさい。体は一つ、霊は一つです。それは、あなたがたが、一つの希望にあずかるようにと招かれているのと同じです。」(エフェソの信徒への手紙4章1-4節)   いよいよ2020年度後期の開始と同時に対面授業が行われています。会いたかった友、教職員のみなさんと再会するのがどれほど奇跡的な恵みであったのか、改めて気づく瞬間です。しかし、教室で待っているのは後ろに置かれているアルコール消毒剤、そして距離のあるソーシャル・ディスタンスの座席表です。感染者が発生した時の疫学調査のため、毎回同じ席に座るべきであり、授業が終ると直ぐに帰宅すべきという、多様な制限方針が待っています。対面であっても皆がマスクをしているので、互いの表情も確認できず、近づいて自由に話し合うことも難しい状況です。楽しみにしていた対面授業なのに、失望した学生もいるかもしれません。   私は4月のチャペルメッセージにおいて、当時の緊急事態について「安全な車間距離」(safe distancing)をとりながら危ない高速道路上を走っていると説明しました。皆さんは早く高速道路から降りて、余裕のある国道に入りたいと思うかもしれません。しかしまだ私たちが走っているのは国道ではなく「バイパス道路」(bypass)ではないかと思います。市内の混雑区間を迂回してまたは峠や山などの狭隘区間を短縮するため建設するのが「バイパス道路」です。この道路は高速道路ではないが、信号や横断歩道もあまりなく、早く疾走する車の多い半分高速道路のような危険な場所です。   元々、「バイパス」という言葉は血管手術や電気回路設計などで使われた用語です。学校において学生は体の血液のような存在です。学生がいない学校は血液が回らない身体と同じでしょう。やっと再会した対面授業は、山梨英和大学という固くなっている体を蘇生させるための緊急手術であり、動いていない市内の国道を循環させるためのバイパス道路かもしれません。そこには余裕のある日常的な身体や国道より、慎重な注意が求められます。安全のため相変わらず気をつかわなければなりません。アメリカの国民詩人であるロバート・フロスト(Robert Frost)の「塀をなおす」(Mending wall)という詩があります。その中に「良き塀こそ良き隣人を作る」(Good fences make good neighbors)という一節があります。高い塀は互いを分かつが、低い塀は互いに対する尊重と信頼を築くというのです。学校生活においてお互いの安全のための「良き塀」を共に築く必要のある時期です。   今日のみ言葉にもパウロは、神からの「招き」について私たちのふさわしい「歩み」を語っています。130年前に神によって建てられた山梨英和大学に学生・教職員として招かれた私たちも、大変な現状にもかかわらず「柔和で、寛容の心を持ち、愛をもって互いに忍耐し、平和のきずな」を結ぶことが求められています。先生や友たちと教室の中で距離を置かなければなりませんが、その中でも「霊による一致を保つように努め」、「一つの希望にあずかるようにと招かれている」私たちになることを願います。これから新しい日々を共に歩んでいきましょう。   Mending Wall by Robert Frost 出典)http://www.scholarspark.com/mending-wall-by-robert-frost.html   「『赤毛のアン』のように」  2020年7月20日(月) 山梨英和大学 宗教主任 洪 伊杓   「あなたがたを襲った試練で、人間として耐えられないようなものはなかったはずです。神は真実な方です。あたながたを耐えられないような試練に遭わせることはなさらず、試練と共に、それに耐えられるよう、逃れる道をも備えていてくださいます。」(コリントの信徒への手紙一 10章13節)   今年の春(2020.3.12)、カナダの小説『赤毛のアン』を韓国に初めて紹介した児童文学作家の申智植(シン・ジシク)先生(90歳)が天に召されました。梨花女子高校の教師だった彼女が見つけた翻訳の底本は、山梨英和女学校の教師であった村岡花子が訳した日本語版の『赤毛のアン』(1952)でした。このようなご縁からなのか、25年ほど前から韓国の梨花女子高校と山梨英和中高との交流がはじまり、姉妹校としても交友を深めています。   私が山梨英和学院の一員になる直前に接したこの申先生の訃報は、少年時代にテレビで視聴した長編アニメーション『赤毛のアン』(1979)を改めて観賞する時間へと私を導きました。孤児であった主人公アン・シャーリー (Anne Shirley)が、様々な試練と逆境の中でも諦めず、いつも明るく乗り越え、立派な教師として成長して行くという内容です。その背景にはいつも雄大なカナダの山々と川が存在し、私たちの周りにある山梨の風景と本当によく似ています。   私たちは今、大変だったこの前半期の終わりをそろそろ迎えようとしています。『赤毛のアン』の最終回である第50話に登場するアンと、遠隔授業で学んでいる皆さんの姿が重なります。大学進学を諦め、地元の小学校で教えることになったアンに対して叔母さんがこのように言います。「(進学をやめて)本当に良かったと思うよ。(…)女が男と同じように大学に行ってラテン語とかギリシャ語とか馬鹿げたものを詰め込むなんて、私は感心しないよ。」それに対してアンは次のように答えます。「でも、リンド叔母さん、私、大学へ行かなくても、ラテン語やギリシャ語をやっぱり勉強するのです。私、このグリーンゲイブルズで(自らの)文科コースを取って大学でやるものは残らず勉強しようと決心してるの。」大学のキャンパスにはいなくても、自宅で頑張るつもりだと…このアンの顔から私は皆さんの姿を思い浮かべました。   そして、最後のシーンに登場する、恩師ステイシーに宛てて書いたアンの手紙の一部を共に読みながら、試練の今年の前半期をまとめたいと思います。今日のみ言葉のように、真実なる神は、私たちに「耐えられないような試練に遭わせること」はなさらないと信じます。この試練に耐え、笑顔で会いましょう。     「私の地平線はクイーン学園からこのグリーンゲイブルズに帰って来た夜から見れば極端に狭まってしまったのかもしれません。しかし、たとえ私の足許に敷かれた道がどんなに狭くても、その道にはきっとしずかな幸せの花が咲いているに違いないと思います。真剣な仕事と立派な抱負と好ましい友情を手に入れる喜びが私を待っています。本当に道にはいつでも曲がり角があるものですね。新たな角を曲がった時その先に何を見出すか、私はそこに希望と夢を託してこの決断をしたつもりでした。でも、狭いように見えるこの道を曲がりくねりながらゆっくりと歩み始めた時、広い地平線に向かってひたすら走り続けていたころに比べ、周りの美しいものや人の情けに触れることが多くなったような気がするのです。むろん、広い地平線の彼方に聳え立つ高い山を忘れてしまったわけではありませんし、何者も持って生まれた空想の力や夢の理想世界を私から奪い取ることはできません。でも、私は今、何の後悔もなく、安らぎに満ちてこの世の素晴らしさを褒め称えることができます。ブラウニングのあの一節のように。『神は天にいまし、全て世は事もなし。』」   写真)村岡花子訳の『赤毛のアン』初版を紹介する故・申智植先生。 まだ朝鮮戦争が終わっていなかった1953年、古本屋で村岡の訳本を見つけた。その後教師になり、それを底本として梨花女子高校の週報『かがみ』(거울)にそれを翻訳・連載した。1963年には創造社で全10巻の単行本として出版された。 出典 https://news.chosun.com/site/data/html_dir/2020/03/17/2020031702716.html   写真)グリーンゲイブルズに残っても大学の勉強を自宅で続けることを決心するアン。 長編アニメーション『赤毛のアン』(1979)の第50話。 出典 https://www.youtube.com/watch?v=OBznwMA_NdI&feature=youtu.be       「忍耐と祈りのとき」  2020年7月17日(金) 山梨英和大学 宗教主任補佐 大久保絹   「苦しんでいる人は、祈りなさい。喜んでいる人は、賛美の歌をうたいなさい。」(ヤコブの手紙5章13節)     ヤコブの手紙5章は忍耐と祈りについて書かれている終結部であり、今日引いた聖書のことばは、苦しみのときも喜びのときも、自分のことだけに集中してしまうのではなく、神を信頼し、祈りと賛美に励むことが勧められています。その勧めの前の箇所、5章7節~8節においては、「忍耐しなさい」と語られるのですが、新約聖書が書かれているギリシア語では、「マクロテューメオー」(μακροθυμέω)という語が使われています。この言葉の原義を追っていくと、「忍耐しなさい」は、ただ我慢するといったニュアンスではなく、「大きな心でいなさい」という意味であることがわかります。神に信頼して一切を委ねることで与えられる平静さからくる「大きな心」とも言えるかも知れません。   新型ウイルスの蔓延に伴う不安の中で、苦しみを抱えながら春が過ぎ、季節は夏になりました。この季節の移ろいと共に、私たちは心のざわつきを静め、忍耐することを求められているのではないかと感じます。しかし、「大きな心」でいることは難しく、そのようなときに慰めとなるかもしれない祈りをご紹介したいと思います。アメリカの神学者・倫理学者であるラインホールド・ニーバー(1892-1971)の「セレニティー・プレヤー(The Serenity Prayer):平静を求める祈り」です。   神よ、変えることのできないものについては、それを受けいれる冷静さを与えたまえ。 変えることのできるものについて、それを変える勇気をわれらに与えたまえ。 そして、変えることのできないものと、変えることのできるものとを、見分ける知恵を与えたまえ。   この祈りは、第二次世界大戦中の1943年に礼拝の中で捧げられたと言われていますが、災禍における不安と混乱に直面している今の私たちにとっても、心の平静さを保つ基いとなる祈りではないでしょうか。   先に引いた箇所には、農夫が大地の尊い実りを心の平静さを保ちながら耐えて待つことが語られています(7節)。主が私たちに伴い、私たちの思いや考えを熟させ、収穫の季節になるまで待っていてくださることが表されています。さまざまな錯綜した情報にさらされる中、不安や焦りや孤独は心の奥底に沈澱させて、静かに落ち着いて来るべき時を待ちたいと思います。主が必ず平安な道を備えてくださることを祈り、その恵みと希望を歌い、謙虚にその時を待ちましょう。       「止まっているこの時こそ」  2020年7月13日(月) 山梨英和大学 宗教主任 洪伊杓   「彼が担ったのはわたしたちの病  彼が負ったのはわたしたちの痛みであったのに   わたしたちは思っていた  神の手にかかり、打たれたから 彼は苦しんでいるのだ、と。   彼が刺し貫かれたのは わたしたちの背きのためであり   彼が打ち砕かれたのは わたしたちの咎のためであった。   彼の受けた懲らしめによって わたしたちに平和が与えられ   彼の受けた傷によって、わたしたちはいやされた。」 (イザヤ書53章4~5節)     感染者が再び増えているというニュースが聞こえてきます。大変な生活はいつまで続くのでしょうか。多数の未来学者、神学者、感染学者などは気候の変化によって大きな危機が近づいていると警告してきましたが、周囲は無視してきました。しかし最近の世界的な感染拡大を経験し、事態は本当に深刻であると気づかされました。いつの間にか液体が気体になる「臨界点」(Critical point)のように、まさか来るはずがないと思っていたその時が突然来てしまったのです。これは一時期に過ぎ去る流行病としてではなく、根本的な省察を求める文明史的な転換期として捉えるべき事態なのではないでしょうか。未来学者のジェレミー・リフキン(Jeremy Rifkin)によると、「1900年には人間が生きる場所が全地球の陸地の14%であったが、2000年になると77%になった」そうです。野生の草地や森を開発し、破壊した結果です。また、現代人の肉食への欲望は最も大きな原因の一つです。結局、野生動物の移住が始まり、動物と共に目に見えないバクテリアやウイルスも居場所がなくなり、人間の領域に入って来ました。最近のエボラ、サーズ、マーズ、ジカウイルスによるパンデミックもこのことが原因です。ウイルスと共存しなければならない不便な日常、ニュー・ノーマル(New Normal)時代が開かれたという話もあります。   しかし、人間は危機の時期にこそ、自らを振り替える知恵を神から与えられて来ました。古代イスラエルの最も暗く厳しい時期はバビロン捕囚期です。紀元前587年、神がおられると信じていた神殿がバビロンによって破壊されました。神殿がなくなると、神はどこにいらっしゃるのかとの問いが生まれ、神は神殿だけではなく、あらゆる場において私たちと共におられることを悟りました。その後、神殿という物質的な場ではなく、神のみ言葉に土台を据えた捕虜の期間に、旧約聖書の多くの部分を執筆します。最も惨めな状態で、希望を失った時、最も偉大な歌を生み出しました。それが今日のみ言葉、「苦難のしもべの歌」です。苦しみの中でまことの平和を求める歌。   安楽な時期には精神的に力強い遺産は誕生しません。危機の時にこそ素晴らしい思想や教えが誕生します。中国も春秋戦国時代に、孔子、孟子、老子、荘子、墨子、韓非子などの諸子百家が登場しました。ローマ帝国の圧制の中でイエス・キリストが誕生しました。第1次、2次世界大戦の経験からエマニュエル・レヴィナス、パウル・ティリッヒ、カール・バルト、ハンナ・アーレントのような思想家たちが誕生しました。混乱な世界、危機の時期こそ、それを乗り越えるための洞察が生まれる機会でもあります。分かれ道の前に立たされれば、私たちは一度止まって今まで歩んで来た道を振り返り、地図を見て正しい道を模索します。すべてのものが止まっている、この不安な時期こそ、私たちがこれから歩んで行くべき道を模索し、求める時としなければならないと思います。       「尊敬をもち、相手を優れたものと思って人助けをする」  2020年7月10日(金) 山梨英和大学 准教授 佐柳 信男   「兄弟愛をもって互いに愛し、尊敬をもって互いに相手を優れたものと思いなさい」 (ローマの信徒への手紙12章10節)     私の担当するチャペルメッセージの聖書箇所に、今年のチャペルの年間標語にもなっている聖句を選びました。私は国際援助のプロジェクトに携わりながら貧困の削減を目指した研究をしていますが、研究活動をするにあたり、いつもこの箇所を念頭に置いています。   実はこの聖書箇所を年間標語として提案したのは私です。この聖句についての想いについて書きたいと思います。   国際援助は発展途上国の貧困を解消することが大きな目的ですが、実は、効果的でない援助も多く行われています。その典型例のひとつは、「貧しい人たちには施しが必要であり、金持ちの先進国には施す義務がある」という姿勢でお金や物資をとにかくバラまくやり方です。   私が関わっている国の中でもマダガスカルという国は特に貧しく、国民の8割近くが1日2米ドル未満で生活する「絶対的貧困」の状態ですので、世界中から「施し」がたくさん届いています。しかし、そのせいで彼らは自分で努力して貧困から立ち上がるのではなく、援助に依存するようになってしまっています。実際、私も現場に行って調査をすると、外国人ということで開口一番に「あなたは何を与えてくれるのですか?」と露骨に聞かれることも少なくありません。   でも、彼らの立場で考えると、数ヶ月先に稼ぎが増えるかどうかわからない研修に見返りなしで参加するよりは、施してくれる人が多い環境なので、いま確実にもらえるものをもらっておいた方が適応的で合理的です。依存してしまっている彼らを責めることはできません。   もちろん、目の前に溺れている人に泳ぎから教えている余裕はないので、飢えて命の危険に晒されている人たちに対しては緊急的な「施し」は必要です。しかし、差し迫った危機がない人たちに「施し」を与えることは、「どうせ彼らは自力ではできないので私たちが支えてあげなければいけないという、実は彼らを優れた者として見ておらず、尊敬をもって接していない意識の裏返しなのです。   援助において本当に大切なのは、彼らの持っている能力を認めて、それを引き出して彼らが自身の力で貧困を脱出するお手伝いをすることだと私は強く思います。   最近、学生が優れていて尊敬しなければならない存在であることをたびたび再認識させられることがあります。遠隔授業は準備する資料が多く、充分に推敲する余裕がないままに配信せざるを得ないこともあるのですが、ミスがあるといつも受講生が指摘してくれてとても助けられています。経験年数が長い分、心理学の知識の量は私の方が多いかも知れませんが、ミスを指摘できるということは、それを批評する能力には差がないことを示しているといえるでしょう。受講生の皆さんには支えていただいて本当に感謝しています。     「よく見て、聞いているか、石の叫びを」  2020年7月6日(月) 山梨英和大学 宗教主任 洪伊杓   イエスはお答えになった。「言っておくが、もしこの人たちが黙れば、石が叫びだす。」 エルサレムに近づき、都が見えたとき、イエスはその都のために泣いて、言われた。「もしこの日に、お前も平和への道をわきまえていたなら……。しかし今は、それがお前には見えない。 (ルカによる福音書19章40〜42節)   イエスが子ろばに乗ってエルサレムに入ると、大勢の民衆が棕櫚の枝を上げ「ホサナ」(ヘブライ語の「救ってください」)と叫びながら歓迎しました。しかし、ファリサイ派の人々は、ナザレ出身の田舎者の姿に嫉妬しました。彼らの耳には「主の名によって来られる方、(…)天には平和、いと高きところには栄光」(38節)と叫ぶ人々の声が疎ましく感じました。彼らはこのように考えたのかもしれません。「イエスという人に何の力があって、群衆たちは救いを求め叫んでいるのか。その声を聞き、当たり前のように受け取るイエスという者もおかしい。本当に自分が救い主にでもなったつもりか。」だからファリサイ派の人々はイエスに群衆を厳しく罰してほしいと求めました。「先生、お弟子たちを叱ってください。」(39節) それに対して、イエスはこのように答えます。「言っておくが、もしこの人たちが黙れば、石が叫びだす。」これは、イエスが旧約聖書で預言者ハバククが「まことに石は石垣から叫び 梁は建物からそれに答えている。災いだ、流血によって都を築き 不正によって町を建てる者よ。」(ハバクク2章11-12節)と語ったことを思い浮かべ語った言葉であったのかもしれません。   前回のメッセージに続けて「マスク」についてお話しましょう。神が口を一つ、目と耳を二つずつ与えて下さった理由は何でしょうか。「静観」と「傾聴」が求められているのではないでしょうか。自らの欲を吐き出すよりは、「救ってください」(ホサナ)と叫ぶ隣人の姿を見て、彼らの声に耳を傾けてほしいとお考えなのではないでしょうか。   ファリサイ派の人々は自らの「口」だけを使っていましたが、イエスは民衆の苦しい姿を見、その叫びに耳を傾けました。そして、ファリサイ派の人々がイエスを試した時には「石の叫び」を取り上げ、応酬しました。人間が勝手に使い、捨て、つまらないものとして無視してしまう自然の最も小さいものの叫びにまで目と耳を傾けました。仏教で「観音」という言葉があります。音を見るというのは矛盾する表現のように考えられますが、イエスは「石」を見ながらもそこから発せられる「叫び」をご覧になったのです。まさに「観音」を行なったということです。   イエスは都をみて泣き始めます。そして「もしこの日に、お前も平和への道をわきまえていたなら……。しかし今は、それがお前には見えない。」(42節)と、私たち人間の愚かさを歎かれました。ここで「泣く」という動詞に使われたギリシャ語「エクラウセン」(ἔκλαυσεν)は「大声で涙を流し嘆く」という意味です。疾病による苦しみ、経済的な困難に追い込まれた人々、そして私たち人間の愚かさのために呻いている自然のすべてのもののために、イエスとともに泣きながらよく見て、よく聞く人でありたいと思います。イエスが愛し、活動した涙の地「ガラリヤ」は、今日、どこにあるのでしょうか。そこからの叫び声に静観し、傾聴する「目と耳」になることを願います。     「心の倉に良い言葉を」  2020年7月3日(金) 日本基督教団甲府教会 牧師 齋藤 真行     「善い人は、良いものを入れた倉から良いものを取り出し、悪い人は、悪いものを入れた倉から悪いものを取り出してくる」 (マタイによる福音書12章35節)   私は大学受験に二度失敗し、大学に行く目的をまったく見失った時期があります。当時、あらゆる勉強は自分にとって死ぬほど退屈なものでしたが、やりたいことがあるわけでもないので仕方なくしていました。生きている意味もわからず、可能ならばすぐにでもこの世から消えてしまいたいと考えていました。   そんな虚無の淵を歩んだ苦しみの日々が、重要な「原体験」になりました。味わった苦しみが「問いかけ」となって心を満たし始めました。「なぜ生きるのか」、「友とは、愛とは、命とは」・・・などと考え始めました。   そのころから、図書館や書店に頻繁に行くようになりました。友もなく、恋人もなく、まったく孤独な日々でしたが、不思議と楽しくなってきました。真理や知識を「探求する喜び」が目覚めました。図書館や書店が、最も刺激的な自分の居場所になりました。   そんな探求のなかで、聖書に出会い、教会に通うようになりました。聖書のなかのごく短い言葉に、自分の歩んできた過去の経験の意味を示される経験をしました。いつの間にか、人生が静かに、そして大きく変わっていきました。   振り返ってみると、それまで私の「心の倉」には、「悪い言葉」があふれるばかりに入っていました。人から馬鹿にされ、あざけられ、傷つけられた言葉や、自分が人を軽蔑し、否定してきた言葉が満ちていました。しかし毎日の苦しみを通して、よりよい言葉を求めてさまよい、心が先人たちの良い言葉に養われるようになりました。結果、考えや語る言葉も変えられ、行動も変えられていきました。   「善い人」になるか、「悪い人」になるかを分けるのは、日々聞き、語っている「言葉」によります。受け入れている言葉が価値観を生み、価値観が考えや行動を生み、習慣やライフスタイルを生みます。   もし「最善の言葉」というものがあるとするなら、それを聞き、語り続けることが、「最善の人生」を作ります。私にとってそれは、「聖書の言葉」でした。良い言葉に出会い、心の倉が満たされることは、よりよく生きるための最も大切な財産となります。   山梨英和大学で皆様が「良い言葉」を心の倉に納め、今後の素晴らしい人生の基礎を築かれますよう、心よりお祈りしています。     「よくみているのか」  2020年6月29日(月) 山梨英和大学 宗教主任 洪伊杓   「あなたは、兄弟の目にあるおが屑は見えるのに、なぜ自分の 目の中の丸太に気づかないのか。兄弟に向かって、『あなたの目からおが屑を取らせてください』と、どうして言えようか。自分の目に丸太があるではないか。偽善者よ、まず自分の目から丸太を取り除け。そうすれば、はっきり見えるようになって、兄弟の目からおが屑を取り除くことができる。」(マタイによる福音書7章3〜5節)   脳の「紡錘状回」(Fusiform Gyrus)という部分は、人間の顔を判断するところだそうです。ここで人の目と口を見て、顔なのか事物なのかを判断します。ところが、西洋人と東洋人の間には、この感覚に大きな差が存在します。西洋人は主に口を見て、東洋人は主に目を見て人の顔、そしてその人の感情を判断するというのです。   日本の代表的なキャラクターであるハローキティは、アジア諸国では大変な人気を得ています。しかし、欧米ではあまり人気がありません。東洋人は相手の目を見ながらコミュニケーションするため口のないハローキティを見ても可愛さを感じますが、口を見ながら相手の感情を読む西洋人にとってハローキティは違和感を与え、愛情も生じません。口のみで目がないキャラクターを私たち東洋人が見たらどのように反応するかを考えると理解しやすいかと思います。インターネット時代に一般化している「イモティコン」(emoticon)も、西洋人は目には変化がなく口の変化のみで、笑っている顔「:)」と怒っている顔 「:(」を表現します。一方、アジアでは口ではなく目を中心に、「^.^」、「T.T」などで感情を表現します。   先週から「マスク」についてお話していますが、西洋では仮装舞踏会という文化があり、そこで目と鼻を被って、口は露出するマスクが流行しました。自らの魅力をアピールし、相手の感情を把握するため西洋人は目よりも口に集中します。このような習性も影響したのか、最近の新型ウイルス拡散の中で西洋人は口と鼻を被るマスクの着用を嫌がる人々が多かったようです。それが欧米における感染拡大の一つの原因になったという説すらあります。「社会的距離」による孤立感、経済的な困難などからくるストレスは、結局誰かに対する責任転嫁と敵対心、怒りとして表出されます。実際に欧米では有色人種への差別と暴力が増しており心配です。そのような現象を対岸の火事として、それを非難する声もアジアで聞こえてきます。   しかし、今日読んだみ言葉において、イエス・キリストは「人を裁くな。あなたがたも裁かれないようにするためである。あなたがたは、自分の裁く裁きで裁かれ、自分の量る秤で量り与えられる。」(1-2節)と言われます。私たちの姿はこのままで良いのでしょうか。「武漢肺炎」という言葉を使い、特定国家や地域の人々への偏見を助長する声がいまだにあります。そして、有名な日系テニス選手に対してある漫才コンビが「漂白剤が必要」と言い問題になったこともありました。無意識に私たちの中に流れている偏見と無知を否定できるでしょうか。   夏になるほどマスクの着用はより大変なことになります。顔を覚えづらく、相手の目しか見ることができません。しかし考えてみると、今私たちの社会は皆がハローキティのようになっている「ハローキティ社会」ではないでしょうか。私たちは可愛いキティのように周りの人々を見ることができるのではないでしょうか。心を込めて「ハロー」と挨拶し、声をかけていますか。今こそ、相手の目の「おが屑」ではなく、むしろ染みがついた涙の跡を見つけ、慰めることができるようにと願います。マスク着用によって「目」と「目」をじっくり見つめながら過ごしているこの「ハローキティ社会」が私たちに与えた一つの課題です。   写真)口のみの変化で感情を表現する欧米のイモティコン(左)と口がない「ハローキティ」キャラクター(右)   「イモティコン」は感情(Emotion)とアイコン(icon)の合成語であるが、日本では「顔文字」と呼んでいます。 ハローキティを生み出した「サンリオ」の社長辻信太郎氏(92)は山梨英和幼稚園出身であり、「山(サン)梨(リ)の王(オ)」となることを目指して社名をつけたと言われます。 ・写真出処: https://biz.chosun.com/site/data/html_dir/2012/04/16/2012041602506.html   ・参考資料: 北海道大学の社会心理学者である結城雅樹教授の研究論文(英文PDF)および関連記事。 https://lynx.let.hokudai.ac.jp/~myuki/paper/Face%20paper%20JESP%20in%20press.pdf https://toyokeizai.net/articles/-/99715?page=2 https://www.appps.jp/300225/     「苦しみを通して成長する」  2020年6月26日(金) 山梨英和大学 専任講師 ダニー ブラウン   キリストは肉に苦しみをお受けになったのですから、あなたがたも同じ心構えで武装しなさい。肉に苦しみを受けた者は、罪とのかかわりを絶った者なのです。それは、もはや人間の欲望にではなく神の御心に従って、肉における残りの生涯を生きるようになるためです。かつてあなたがたは、異邦人が好むようなことを行い、好色、情欲、泥酔、酒宴、暴飲、律法で禁じられている偶像礼拝などにふけっていたのですが、もうそれで十分です。・・・むしろ、キリストの苦しみにあずかればあずかるほど喜びなさい。それは、キリストの栄光が現れるときにも、喜びに満ちあふれるためです。(ペトロの手紙一 4章1~3/13節)   クリスチャンがないがしろにされたり、追い詰められ殺されたりした時代に、この聖句は使徒ペトロによって書かれました。生きとし生けるものは艱難辛苦に耐え、最後の目標として、悩みを克服して喜びを手にしたいと思うものです。でも神は私たちに、それ以外の目標を用意しております。   せんだって読んだ新聞記事のことです。1930年代の大恐慌を生き延びた人々の心理を調査した報告記事でした。記事のタイトルは内容を要約しています。「大恐慌の逆説:生き残り成功した子供」この調査は、大恐慌を経験した子供たちを彼らが六十代になるまで追跡したものです。この調査によると、大恐慌の時に最貧だった子供は、比較的恵まれた子供よりも、のちに社会的に成功したというのです。経済的に苦しかった子供は、人一倍勉強し、家庭での新たな役割を自覚し、アルバイトも率先してやったからです。その結果、恵まれた家庭の子供以上に、彼らは学年を重ねても一層教育を受けようと思い、就職後も出世がはやかったとのこと。   神を信じていないとしても、艱難は品性を生み、出世、名誉、金銭という報いをもたらします。でも、定年後や死ぬときには、こういった褒美は取り去られます。   イエスへの信仰があると、艱難の意味はさらに深みを帯びます。つらい目にあい、苦痛と恐れの中にあるとき、私たちは罪への誘惑に引っ張られずに、神および人を愛することを学ぶのです。祈るようにもなり、神を信頼して大船に乗った心持になります。この世の何物も失わないし、私たちに向けられた神の愛も失うことはない、と私たちは納得するのです。   ペトロは言いました。「それは、キリストの栄光が現れるときにも、喜びに満ちあふれるためです」(13章)。地上を離れ天国に行ったときに、神の栄光を私たちは目の当たりにしますが、ペトロの聖句はその時のことを言っています。イエスを信じさえすれば、天国でありあまるほどのご褒美が私たちを待っているのです。神を信じるならば、この世で感じる大いなるやすらぎにプラスして、失うことのない悠久のご褒美も、当てにしていいのです。だからこそ、艱難や喜びが一層意味あるものとなるのです。(翻訳者:川口 清泰)   Growing Through Suffering Danny Brown   Therefore, since Christ suffered in his body, arm yourselves also with the same attitude, because he who has suffered in his body is done with sin. As a result, he does not live the rest of his earthly life for evil human desires, but rather for the will of God. For you have spent enough time in the past doing what pagans choose to do&#8211;living in debauchery, lust, drunkenness, orgies, carousing and detestable idolatry. . . . But rejoice that you participate in the sufferings of Christ, so that you may be overjoyed when his glory is revealed. (1 Peter 4:1-3 / 13)         This scripture was written by the apostle Peter at a time when Christians were often rejected and sometimes hunted and killed. We all go through sufferings, and our goal is to get rid of the suffering and find joy. But God has other goals that we cannot see.         I recently read a newspaper article that reported a psychological study of people who lived through the Great Depression in the 1930’s. The article title sums up the message: “The Great Depression paradox: children survived, then thrived.” The research studied the lives of children of the depression, from their childhood and continuing into their 60’s. The study found that children who were the poorest during the depression, later became more successful than children who had better circumstances. The reason is that children that suffered economically worked harder, took on new family roles, and worked part-time jobs as children. As a result, they later pursued more education and were quicker to be promoted in their jobs than children who suffered less.         Even without faith in God, suffering can build character and bring rewards like job success, fame, or money. But those rewards will be taken away when we retire or later when we die.         With faith in Jesus our sufferings can even take deeper meaning. When we go through hard times, in the midst of pain and fear, we learn to stay away from temptations of sin while also loving God and others. We learn to pray, to trust God to take care of us. We learn that anything in this world can be taken away, but no one can take away God’s love for us.           Peter wrote, “So that you may be overjoyed when his glory is revealed.” Peter was speaking about dying and going to heaven where we will see God’s glory. If we believe in Jesus, we will receive a great reward in heaven. With faith in God, we can gain deep peace in this life plus look forward to eternal rewards in heaven that can never be lost. This brings greater meaning to our sufferings and our joys.     「よく聞いているのか」  2020年6月22日(月) 山梨英和大学 宗教主任 洪 伊杓   それから、イエスは群衆を呼び寄せて言われた。「聞いて悟りなさい。口に入るものは人を汚さず、口から出て来るものが人を汚すのである。」(マタイによる福音書15章10〜11節)   ウイルス感染から自らを、そして他人を守るためマスクの着用が当たり前の日常になっています。「マスク」(mask)という言葉はどこから由来したのでしょうか。諸説ありますが、ヨーロッパの原始語である「マスカロ」(maskaro)がその後ラテン語の「マスカ」(masca)になったことと関係があるようです。この言葉は、元々猟をする時に顔に黒い色を塗って変装したことに由来し、その後公演の時に俳優が役を効果的に表現するために被る仮面を意味するようになりました。「道化者」を意味するアラビア語の「マスカラ」(maskharah)もその由来の一つと言われます。つまり顔を隠して、役を演じるために作られたのが「マスク」の始まりです。したがって、現在の私たちの日常は「仮面被り」の生活とも言えるかもしれません。   しかし、現在私たちが使っているマスクは顔全体ではなく、鼻と口を覆い、紐を両方の耳にかけます。目と耳を開いて、鼻と口を閉じられている今のマスクは、私たちに「沈黙」を求めているようにも感じます。これまでの私たちの日常を振り返ると、口から要らない話ばかりしていたのかもしれません。沈黙とは、しゃべりたくなる私たちの本能的な習性を抑制する訓練であるため、キリスト教においても「観想祈祷」(Contemplation Prayer)という沈黙の伝統があり、仏教においても黙言修行が行われて来ました。沈黙とは自らの経験や考えを最善とする欲望に陥った自分に「マスク」を被せる勇気でもあります。マスクは話したい時にもう一度悩み、慎重に考え、相手を配慮する練習を行うための一つの道具でもあります。   保健医療のみならず経済的にも不安定になっているこの時期、利己主義、嫉妬、嘲弄や非難、分裂、陰謀、怒り、暴言が私たちの口から無分別に表出され、「憎悪」というウイルスがより社会に蔓延するのではないかと心配です。ある小説家は「人々の話が多すぎて、言葉は疲れ果て、倒れてしまった」と嘆きました。旧約聖書に語られるバベルの塔以後、ばらばらになった言葉の混乱がこの時代はよりひどくなっているのではないでしょうか。新型ウイルスがもたらした現在の苦しみが私たちに問いかけています。あなたは他者の話を聞いているか。あなたはしゃべりすぎではないのか。   今日のみ言葉(10〜11節)には、イエスを試そうとしたファリサイ派の人々に対してイエスによる訓戒が記されています。弟子ペトロが「そのたとえを説明してください」(15節)と言うと、イエスは「あなたがたも、まだ悟らないのか。」(16節)と叱られ、もう一度次のように強調します。「すべて口に入るものは、腹を通って外に出されることが分からないのか。しかし、口から出て来るものは、心から出て来るので、これこそ人を汚す。悪意、殺意、姦淫、みだらな行い、盗み、偽証、悪口などは、心から出て来るからである。これが人を汚す。しかし、手を洗わずに食事をしても、そのことは人を汚すものではない。」(19〜20節)   イエスは、より具体的に私たちの口から出るものがどれほど汚染されているかを指摘します。私たちは、鼻と口にウイルスが入るのではないかと懸念し、いつも手を洗い消毒します。しかし、むしろ私たちの口から出る汚れた言葉がより深刻な問題ではないかと考える時間が必要です。今、この瞬間にも黙々と、隣人の声に耳を傾け、仕える人々がいます。このような人こそこの時代の汚れている「言葉」を浄化している存在ではないでしょうか。私たちもその道を共に歩んで行きたいと思います。それが難しいように感じたら、沈黙して一言心の中で祈ってみるのも良いでしょう。     「アカダマ、と名づけてみた」  2020年6月19日(金) 日本基督教団八ヶ岳伝道所 牧師 山本護   「主なる神は、野のあらゆる獣、空のあらゆる鳥を土で形づくり、人のところへ持って来て、人がそれぞれをどう呼ぶか見ておられた。人が呼ぶと、それはすべて、生き物の名となった」 (創世記2章19節)     「コナラ」だと思っていた伝道所入口の木に奇妙な実がついている。コナラではないのかね。数冊の図鑑やインターネットで調べても判明しません。若葉の季節に種子を内包し通常の実とは考えにくいし、突然変異か、何かの病巣なのでしょうか。謎めいた出来事は問いであり、判らないという困惑をしばらく楽しみました。   これが何なのか未だ不明なため、とりあえず「アカダマ」と名づけ、樹種を「アカダマの木」としておきましょう。思い起こせば子供の頃、自家命名の生物がたくさんいました。くさい匂いを出す「ヘッピリ芋虫」とか、暗い池にいたイボのある「ドク蛙」とか。   「主なる神は、野のあらゆる獣、空のあらゆる鳥を土で形づくり、人のところへ持って来て、人がそれぞれをどう呼ぶか見ておられた。人が呼ぶと、それはすべて、生き物の名となった(創世記2章19節)」。   現代でも、原始生活をする民の命名はおそろしく複雑多岐にわたっているそうです。要するに雄雌や幼老の形態違いが別種の生物区分になるため、ネーミングが全部異なる。そのことから類推するに、「初めの人」の被造物命名は随分苦労したであろう、と思います。私などは生涯の内、十か多くて二十くらいを命名するに過ぎず、この春は奇妙な物体を「アカダマ」と名づけて喜んでいるくらいですから呑気なものです。   男は女と共に、神に背いて「善悪を知る木の果実」を食べました(創世記3章6節)。するとどうなったか。男は「アダム」という名を得(3章8節)、その「アダムは女をエバ(命)と名付けた(3章20節)」。彼らはもはや被造物の基なる「土(アダマ)」由来の「人(アダム)」(2章19節)とは別分類になり、また男とか女とかの違いでもなく、唯一の存在「エバ」と唯一の「アダム」という存在になりました。これが神に背いて自らを負う(3章23節)「自由」なのかもしれません。   一人ひとりに名前があっても、群衆になると烏合の衆で、いちいち唯一の存在などと言っていられません。「俺一人いなくなっても変わらない」組織や仕事場。口では人権とか個性 とか麗しいですが、どんな世間でも規格内の差異が求められます。   「羊飼いは自分の羊の名を呼んで連れ出す(ヨハネによる福音書10章3節)」。私たちは羊飼いキリストの「声を聞き分け(10章3節)、ついて行く(10章4節)」。名を呼ばれ、奥底の存在が呼び出されて自己が見出される。キリストはすべての羊を唯一無二の存在とする。ということは、群に適合する羊に躾けるのではなく、羊たちの調和と不調和による未知なる群が形成されるのです。   初夏に現われた奇妙な物体を「アカダマ」と名づけてみただけで、いろいろな連想が巡りました。これも命名に関する主なる神の促しなのでしょうか。     「多様性が活かされるコミュニティー」  2020年6月15日(月) 山梨英和大学 宗教主任補佐 大久保絹   ひとりよりもふたりが良い。共に労苦すれば、その報いは良い。 倒れれば、ひとりがその友を助け起こす。倒れても起こしてくれる友のない人は不幸だ。(コヘレトの言葉4章9〜10節)   京都御所近くの路地を入ると白い煙突と赤い瓦屋根の建物が見えてきます。かつて宣教師の住居だったこの場所は、1998年より「バザールカフェ」として、その歩みを始めました。カフェでふるまわれるアジア・エスニック料理は、就労の機会を得ることが難しい在日外国人によって作られています。美しい庭は、薬物依存回復者の支援団体であるダルクに連なる人たちによって整えられています。また庭内にはタイの山岳少数民族カレン族の織物などを販売する「カレン・ハウス」もあります。このように、働く場、回復する場、支え合う場でもあるのがバザールカフェです。そして、その場に集う学生、地域の人たち、外国人、セクシュアリティの課題を持つ人、HIVやそのほかの疾患を持つ人たちが、ありのままの姿で受け入れられ、尊重される場を目指し、今も歩みを続けています。    旧約聖書『コヘレトの言葉』は、「なんという空しさ、なんという空しさ、すべては空しい」という言葉で始まる(1章2節)、人生と社会についての無常と虚無が強調される知恵文学の一つです。コヘレトが自身の人生を振り返り、すべてのものは虚しいと語り、それを「空」と表しました。しかし、今日引いた箇所では「ひとりよりもふたりが良い」と記され、仲間があること、共に労苦し、助け合える仲間がいることの良さを認めています。人生や社会に虚しさを感じ、人との関係にも煩わしさがあるとしても、助け合い、慰め合い、認め合う関係の創出が、神の御心であること、ゆえに神の知恵により頼み、神を畏れる生き方が大切なのではないか、そうコヘレトは問いかけています。   バザールカフェに集うことによって救われ、そこに連なる仲間によって助け起こされた体験は、人知を超えた神の導きと愛の業に他なりません。このように私たちの歩みも神の愛の内にあります。だからこそ安心して、神から与えられた「生」を生き抜き、他者の存在を尊び、受け入れ、共に生きる者として喜びたいものです。山梨英和大学での出会いとキャンパスライフとが「空」の体験に終始することなく、多様性に寛容であることで、ますます豊かなものになるよう願っています。   写真) バザールカフェ入口(旧宣教師館「クラーパードイン」) ウィリアム・メレル・ヴォーリズ建築(1932年/昭和7年) 写真) 居場所としてのバザールカフェ     「真理と自由」  2020年6月12日(金) 山梨英和学院 法人本部 事務局長 古屋秀樹    イエスは、御自分を信じたユダヤ人たちに言われた。「わたしの言葉にとどまるならば、あなたたちは本当にわたしの弟子である。あなたたちは真理を知り、真理はあなたたちを自由にする。」(ヨハネによる福音書8章31~32節)    新年度が始まり2か月半が経過しました。大学事務棟で働いている私にとって4回目となるこの季節は、これまでとは随分違ってしまいました。昨年までは学生の皆さんの活き活きとした姿と声がキャンパス内に満ちていて、特に大学生活のスタートに期待と不安が入り混じった様子の新入生の初々しい姿を嬉しく眺めていました。   しかし、今年は様変わりしてしまいました。新型コロナウイルス感染症による止むを得ない大学のクローズ宣言によって、皆さんは登校が許されずPCやスマホによるオンライン授業での学びを強いられています。残念ながら皆さんの姿を見ることができません。   感染予防は、今、最も優先すべきことであるので止むを得ないとは言え、登校できないことでの学生の皆さんの物足りなさ、残念さ、また不安は想像できるものです。特に新入生は、期待していたクラスメイト、サークル活動での先輩や友人、そして先生方との直接の出会いと語らいが、今は殆どお預け状態であり、いつになったら実現できるかわからない状況に、もしかして、自分は本当に大学生になったのだろうかと疑ってしまっているのかもしれません。   5月15日のチャペルメッセージで杉村篤志先生が、コロナ禍で私達が本当に失ったもの、それはこれまで享受してきた「自由」であったことを言い当てて、更に「自由」の価値、意味についても書かれていました。その通りだと思わされましたが、確かに私達、とりわけ大学生の皆さんは「自由」を失った思いは強いのだろうと思います。個人差はあるものの人生の中で最も「自由」を享受できる時は、大学生時代だと言われており、私自身の経験でもそのとおりなので、失望感、喪失感は大きいことでしょう。   では、今回、皆さんが失ってしまった「自由」とは、どんな「自由」なのでしょうか? 端的に言えば「行動の自由」ということになるでしょう。自由に人と会えない、自由に集まれない、自由に〇〇へ行けない、自由に〇〇が出来ない等の「行動の自由」の制限・喪失だと言えるでしょう。   さて、聖書では「あなたたちは真理を知り、真理はあなたたちを自由にする。」と言っています。「真理」と「自由」の関係を、「真理」を知る事が「自由」を得る事になると言っていますが、これは一体どういうことなのでしょうか。この「自由」は少なくとも「行動の自由」だけでないことは明らかです。では、どんな「自由」なのでしょうか。   聖書の解釈とは離れますが私はこのように考えます。大学での「学び」の特徴は、高校までと異なり「真理」を探求することにあると言ってもよいでしょう。リベラルアーツの大学である山梨英和大学は特にその特徴が強いと言えます。だとすると、その学び、「真理」を求める学びは、「自由」を得ることに繋がるのだということです。大学での深い学びは、これまでの知識、経験に留まらず、古今東西の叡知に接して広い世界を認識すること、自分自身の偏見や狭い思考の束縛から解放されること、そのような「自由」を得る可能性があるということなのだと思うのです。それは、「行動の自由」だけでない「自由」の意味、価値を見つけ出すことでもあります。「行動の自由」を制限された今、皆さんが大学生としての学びによって、別の「自由」にも目を向けてくれることを期待したいと思います。   さて、この聖書箇所では、イエスの言葉に留まること、弟子になることが「真理」を知る事であり、「真理」を知ることが「自由」を得ることだと言っています。これだけでは、何のことか良くわからないでしょう。しかし、幸いなことに、キリスト教学校である山梨英和大学では、この「真理」を知る事が可能です。学生の皆さんには、是非とも、この「真理」と、そこから得られる「自由」についても関心を寄せて欲しいと願います。   最後に、皆さんがこの美しいキャンパスにおいて、これまでのように遠慮なく集って学ぶ日が一日も早く訪れることを祈っています。     「癒しと回復としての騒音」  2020年6月8日(月) 山梨英和大学 宗教主任 洪 伊杓   「主はこう言われる。この場所に、すなわちお前たちが、ここは廃虚で人も住まず、獣もいないと言っているこのユダの町々とエルサレムの広場に、再び声が聞こえるようになる。そこは荒れ果てて、今は人も、住民も、獣もいない。しかし、やがて喜び祝う声、花婿と花嫁の声、感謝の供え物を主の神殿に携えて来る者が、『万軍の主をほめたたえよ。主は恵み深く、その慈しみはとこしえに』と歌う声が聞こえるようになる。それはわたしが、この国の繁栄を初めのときのように回復するからである。」 (エレミヤ書 33章 10~11節)   山梨英和大学に来て三か月目です。静けさの中で、キャンパスには軽やかに飛ぶツバメの声しか聞こえません。山奥の寺や修道院に来ているような静寂さはいつの間にか当たり前のような日常になっています。新緑あふれる素晴らしい自然の中で、学生たちが話し合い、笑い、歌う声が聞こていないキャンパスは、まるで砂漠や荒野のように感じられます。学ぶ場に学ぶ人々がいないと、その場所は生命力を失ってしまったかのように感じられるからです。   ゼデキヤ王が治めた時代のユダ王国は、神との約束を忘れ堕落した結果、神の怒りを買いました。バビロンの軍隊がエルサレムを包囲し、ユダ王国の破滅を預言したエレミヤは牢獄に監禁されてしまいました。(エレミヤ書32章1~2節)それでも預言者エレミヤは、罪深いユダの地は荒れ果て、町には人々が見えなくなり、獣さえ生きていけない不毛の地になるだろうと語りました。(エレミヤ書33章10節)しかし、神は彼らを完全に見捨てる事をなさいませんでした。エレミヤ書33章6節で「見よ、わたしはこの都に、いやしと治癒と回復とをもたらし、彼らをいやしてまことの平和を豊かに示す」とおっしゃる神は、回復の約束をも与えてくださいました。さらに10節には、「ユダの町々とエルサレムの広場に、再び声が聞こえるようになる」と記されています。そこは荒れ果て、人も獣もいなくなったが、「やがて喜び祝う声、花婿と花嫁の声、感謝の供え物を主の神殿に携えて来る者が、『万軍の主をほめたたえよ(…)』と歌う声が聞こえるようになる」(11節)と預言しました。   長引く新型ウイルスの事態によって、活力と力動性を失っているこの世界です。疲れ果て、皆が黙っています。時にはうるさいと思っていた日常の騒音が、むしろ恵みであったことをその「声」を失って初めて気づかされます。   4月には小さかった幼いツバメは、いつの間にか大きく成長してキャンパスを元気に飛び交って、巣立っていきます。さえずる声も軽快です。もしかすると、彼らの声は過ぎ去ってしまう「騒音」に過ぎなかったかもしれません。しかし、今年の大変な静けさの中でその「騒音」は賑やかな恵みの声、力強い回復への音として再発見されます。次は、山梨英和大学のキャンパスで学び、交わる中で大きく成長する学生のみなさんの声を楽しみにしたいと思います。「それはわたしが、この国の繁栄を初めのときのように回復するからである。」(11節)という神の約束どおりに。     「憐れみの神様」  2020年6月5日(金) 山梨英和中学校・高等学校 宗教主任 宍戸尚子   「ああ、エフライムよ お前を見捨てることができようか。  イスラエルよ お前を引き渡すことができようか。  アドマのようにお前を見捨て ツェボイムのようにすることができようか。  わたしは激しく心を動かされ 憐れみに胸を焼かれる。」 (ホセア書11章8節)   紀元前4世紀の哲学者エピクロスは、心穏やかで静かな状態や心の平安を求め、“社会から隠れて生きよ”と説きました。世界史や倫理の授業などで知っている人もいると思います。エピクロスを中心とするこの派の人たちは、ある庭園で共同生活をして、社会の出来事や他人の心の動きに興味関心を持ちませんでした。この人たちは神様もそうだと考えました。たくさんの神がいると考えてその存在を信じてはいたのですが、その神々は自分の楽しみにばかり夢中で、人間や人間世界の出来事には全く興味がないと思っていたのです。神はいるけれど、人間に興味がない。近づいたり語りかけたり、思いやったり、いつくしみの心を持ったりはしないということです。   旧約聖書のホセア書には、「お前を見捨てることができようか。」「お前を引き渡すことができようか。」「わたしは激しく心を動かされ 憐れみに胸を焼かれる」と語られます。聖書の神様はエピクロス派の人たちの神様と随分違います。「エフライム」とか「イスラエル」は旧約聖書の民のことですが、私たち人間を表しています。そして「アドマ」や「ツェボイム」はその昔、悪のゆえに滅びてしまった町の名前です。“私はあなたを見捨てることなどできない。滅びるままにただ見ていることはできない。” 聖書の神様は、私たちのために「激しく心を動かされ」、さらには「憐れみに胸を焼かれる」そういうお方だというのです。そして罪ある私たちのために大切な独り子を十字架におかけになって、ご自身の痛みはさておいて、私たちをゆるし、愛する決断をされるお方です。   聖書の神様は私たちに対して、興味がありすぎる、おせっかいなほどのお方です。私たちは自分の心の穏やかさを求めて、他人のことには興味を持たずに生きようとします。でもそんな私たちのために「激しく心を動かされ 憐れみに胸を焼かれ」て、何とか私たちを救おうと願っている神様がおられることを、忘れないでいたいと思います。そして私たちも毎日心を動かされながら、隣人と共に生きていきたいと願います。   写真) 山梨英和中学校・高等学校 グリンバンクチャペル     「神への謙遜」と「神からの知識」  2020年6月1日(月) 山梨英和大学 宗教主任 洪 伊杓   「財産は金持ちの砦、自分の彫像のそびえる城壁。破滅に先立つのは心の驕り。名誉に先立つのは謙遜。聞き従う前に口答えをする者 無知と恥は彼のため。人の霊は病にも耐える力があるが 沈みこんだ霊を誰が支えることができよう。聡明な心は知識を獲得する。知恵ある耳は知識を追求する。」(箴言18章11〜15節、新共同訳)   新型コロナウィルスの事態は前代未聞の文明史的転換の意味を持っています。もちろん過去にもウイルスや細菌などによる疫病はありました。最近のMARSのみならず、歴史的にも14世紀ヨーロッパの人口3分の1を奪ったペスト、インカ帝国の人口の90%が亡くなったヨーロッパ発の伝染病、20世紀初頭に5000万人の命を犠牲にしたスペイン風邪があります。にもかかわらず、新型コロナが前例のない現象であるという理由は、ウイルス自体ではなく、それに直面した後の人類の態度が異なるということです。   カミュが小説『ペスト』(1947)で描いた疫病(黒死病)は、合理性に欠けた「不条理」を指摘すると同時に、絶対的な限界を感じる人間の無気力を表す言葉でもありました。恐ろしい伝染病を経験した人間は教会に集まり神に祈りました。小説『ペスト』のパヌルー神父も、疫病は神による裁きであるから悔い改めよと力説しました。しかし教会に集った人々は次々と病気に罹り、多くの人が犠牲となりました。神への謙遜はありましたが、神からの知恵に対しては見過ごしてしまったようです。   昨日は聖霊降臨日(ペンテコステ)の主日でした。600年前、ペストが襲った際には礼拝堂に人々を集めたカトリック教会は、現在ミサを中止し、各地のプロテスタント教会も動画による遠隔礼拝や短縮した礼拝で主日を守っています。私たち山梨英和大学のチャペルもこのようなウェブ上でのメッセージ配信とキリスト教教育週間の動画配信を試みました。これは確かに今までには経験したことのない前代未聞の文明史的な転換です。このような経験を通して、私たちは礼拝堂や教室で人々と対面する日常がいかに大切であるかに気づかされます。それでも、ウェブ上でも顔を合わせ、つながっていることを再確認できます。これこそ今の世代に与えられた聖霊による「絆」ではないでしょうか。   今日の箇所によると、欲望に従って来た私たちは、謙遜を失い、神から与えられた自然を勝手に破壊し、そこからの富を蓄積しながら自らを守ってくれる城壁だと錯覚し、高慢になりました。(11〜12節)しかし今、代表的な大国や大都市はどのようになっているでしょうか。ある人は、マスクを日常的につけることに対して、これは不満や批判、悪口が多い人間の口を塞ぐために神がお考えになった結果だと言いました。口を慎み、隣人の言葉に耳を傾け、何よりも神の声に耳を傾けることが求められるのではないかと言うのです。本日のみ言葉にも「事をよく聞かないで答える者は、愚かであって恥をこうむる」(13節、口語訳)とあるように。14節には「人の霊は病にも耐える力があるが、沈みこんだ霊を誰が支えることができよう」と問うています。「支えるお方」はまさに「絆」を結ばせてくださる聖霊なる神ではないでしょうか。   現在、私たちは最先端の情報網を用いながら大変な患難を何とか乗り越えるためみんな努力を惜しみません。「さとき者の心は知識を得、知恵ある者の耳は知識を求める」(15節、口語訳)と記されているように、聖霊なる神とともに神に与えられた知識や技術によって互いがつながっていることを確認するのです。このような時こそ「神への謙遜」と「神からの知識」を共に求める私たち山梨英和大学でありますようにと願います。いつかこの危機を克服した後、チャペルと教室で再会を果たした時、この恵みに一層感謝し、その一瞬を大切にしたいと思います。     「身近な幸福の光」  2020年5月22日(金) 山梨英和大学 専任講師 大井奈美   主よ、あなたは 御業を喜び祝わせてくださいます。わたしは御手の業を喜び歌います。(詩編92編5節)   【写真1】   【写真2】   コロナウイルスをめぐる試練に直面するなかで、身近な幸福に目を向けてみたいと思います。   山梨に住み始めたとき、明確な「春」をはじめて体験したように感じました。桜、花桃、こぶし、沈丁花、ライラック、藤、花水木、つつじなど、花々が途切れなく一気に咲いて、まるで命が復活するような活力を感じさせてくれます。沈丁花のフルーティな匂い、ライラックの清潔な香りなど、心まで吸い込まれるような香りにもよく出会います。   【写真1】は、2017年に笛吹市の釈迦堂遺跡近くで撮影した花桃です。山梨の明るい光は、コントラストが強くて彩度も高い、華やかな世界を感じさせてくれるようです。その光のなかでは、文字通りまぶしいほど鮮やかに色彩が輝くように感じます。   通勤途中には、雪で真っ白なアルプスが、遠くの青空にくっきりと映えています。道端のせせらぎには、辺りに季節の草花が咲き揃い、亀、カルガモやマガモのつがい、アオサギ、カワセミ、セキレイなどが暮らしています。その一部は愛称をつけることができるほど毎日同じ場所で餌を取っているので、一緒に生きているような感覚になります。   隣県の高原・長野では、春というより秋から冬に、その清澄で凛々しい雄大な美しさが際立つように思われます。長野の冷たい空気に冴えた紅葉は、山梨の優しい秋の光に映える紅葉とは異質に感じられます。あまり星もまたたかないほど澄んだ空気の長野では、広大な空からの透徹した光によって、遠くの山の裾野まで見通すことができます。長野の爽やかな色彩は解放感を、山梨の明るく温かな色彩は生きる喜びを、それぞれ与えてくれるように思われます。   この圧倒的に美しい山梨のなかでも、キャンパス内は、四季をつうじて、どこを見ても絵葉書にできるような美しい環境だと感じています。   【写真2】は4月下旬の朝8時頃にキャンパス内から撮影した風景です。朝の光は特に素晴らしく、山梨本来の強くて明るい光に、エッジがきいた感じが加わるように感じられます。そのため、離れた山の木々も目の前の若葉も同じようにくっきりと見えて、内側から発光しているかのようです。山梨では「春眠暁を覚えず」ではなく、「春はあけぼの」とばかりに、朝の美しさに「目が覚める」思いがします。   もちろん、夕焼けから宵、そして夜にも別の美しさがあります。キャンパスの高いメタセコイアの枝を透かして、金星が輝きます。月が満ちれば、影ができるほどの月明かりです。惑星が光の筋を伸ばして、見事な星型を空に形作っています。地上では、青信号のような青緑色がまじる、繊細で精巧にも見える夜景が、落ち着いた華やぎを心に与えてくれます。   このように、今身近にある自分なりの幸福に目を向けたら、試練を生きる励ましをもらえるかもしれません。     「単独行、むしろ恵みの時間」  2020年5月18日(月) 山梨英和大学 宗教主任 洪 伊杓   「この恵みは、聖なる者たちすべての中で最もつまらない者であるわたしに与えられました。わたしは、この恵みにより、キリストの計り知れない富について、異邦人に福音を告げ知らせており、すべてのものをお造りになった神の内に世の初めから隠されていた秘められた計画が、どのように実現されるのかを、すべての人々に説き明かしています。」(エフェソの信徒への手紙3章8〜9節)   昨年5月5日、北アルプスの燕岳山上で朝を迎えました。日の出と富士山が目に入りました。1年後の今、北アルプスの山荘はコロナのためすべて閉鎖され燕岳山上は寂しいことでしょう。燕岳に一緒に行った友人が加藤文太郎という人物を教えてくれました。日本の山岳人から最も尊敬されている人物。神戸造船所の労働者だった彼は、六甲山脈縦走を経験した後、北アルプス縦走にも挑み、1925年に初めて登った山が燕岳でした。以後、冬山として最初に挑戦したのが山梨の八ヶ岳連峰でした。   なぜ彼が尊敬されるのか、二つの理由が考えられます。加藤は欧米人が勧める登山靴を履かず、労働者の「地下足袋」を履いて山を歩きました。先端装備で武装し山を征服する高慢な姿勢ではなく、山に畏敬の意を表し謙遜に歩いた人でした。彼は3000mのアルプスを経験しながらも、若い時に自分を鍛錬してくれた神戸の高取山にも度々登りました。328mの低い山であっても彼にとってアルプスと変わらない偉大な山でした。   そして彼はいつも一人で山に登りました。まるで「神の前で我々は皆主体性を持つ単独者である」と述べた思想家キルケゴールのように、彼は山に対して常に独りで向き合いました。1929年の正月に八ヶ岳の赤岳山頂に立った彼は次のように自問自答を繰り返しました。「今日は元日だ、町の人々は(…)嫌になるほど正月気分を味わっていることだろう。(…)それだのに、なぜ僕は、ただ一人で呼吸が蒲団に凍るような寒さを忍び、凍った蒲鉾ばかりを食って、歌も唄う気がしないほどの淋しい生活を、自ら求めるのだろう。」怖くて不安ばかりでも、彼にとっては山が友であり、慰めであったに違いありません。孤独な山道を歩いた加藤は、結局30歳という若さで槍ヶ岳登山中に遭難し天に召されました。   彼の登山記録や文章は死後『単独行』(1941)という遺稿集になりました。富士山頂の観測所で働いていた新田次郎は、真冬に一人で登る加藤との出会いを小説『孤高の人』に記し、その他にも『単独行者:Alleingänger』という評伝が発表されるほど、加藤は現代の日本山岳人たちに勇気を与える精神的な柱となりました。1960-70年代に日本人がエベレストなどヒマラヤ山脈を登り始めた時も加藤の存在が大きかったことでしょう。故郷の高取山が加藤の励ましになったように。   コロナのため私たちは部屋で独りになる時間が増えています。辛く寂しい一人の山歩きのような日々です。こんな私たちに、投獄され孤独な時間を過ごしたパウロは今日のみ言葉を伝えています。ローマ帝国市民としての特権を捨て、キリストの福音を伝え始めて受けた試練…それでも彼が語るのは「恵み」です。それは天地を創られた「神の内に世の初めから隠されていた秘められた計画」、つまり、独りの人間としてこの世にイエス・キリストが来られたということです。十字架の死を覚悟し、最も孤独な生を歩んだ人。「単独行者としての人間イエス」と向き合う時、私たちも「孤独な一人」として前に立たされます。山梨英和大学で学び、また働いている皆さんは、孤独な人間イエスと出会い、この時を「恵み」の時として過ごしていければと願います。登山家、加藤のように私たちの孤独な姿も誰かの慰めになるかもしれません。     写真-上)燕岳から眺められた槍ヶ岳、2019年5月4日 (撮影:筆者) 写真-下)燕岳から眺めた山梨方面の日の出、2019年5月5日(立っているのが筆者)     「自由を得る」ために  2020年5月15日(金) 山梨英和大学 人間文化学部 専任講師 杉村篤志   「兄弟たち、あなたがたは、自由を得るために召し出されたのです。ただ、この自由を、肉に罪を犯させる機会とせずに、愛によって互いに仕えなさい。律法全体は、『隣人を自分のように愛しなさい』という一句によって全うされるからです。だが、互いにかみ合い、共食いしているのなら、互いに滅ぼされないように注意しなさい」 (ガラテヤの信徒への手紙 5章13節~15節)   政府による緊急事態宣言が出された4月7日以降、夜更けに甲府駅北口のコンビニで買いものをする機会が増えました。お店が営業を続けてくれていることはありがたく、美味しいスナック菓子をいくつか新たに発見するなど、思いがけぬ僥倖にも恵まれています。それでもやはり、静まりかえった駅前の暗闇のなかを歩いていると、侘びしく息詰まるような心持ちになります。唯一、ほっとした気分にさせてくれるのは、よっちゃばれ広場のスロープに響く耳慣れたスケートボードの音です。   この春、世界中の数十億もの人々が、それまでふつうと考えられていたことが突然そうでなくなる、という経験をしています。ごくあたりまえだった様々なことが失われ、禁じられ、ときには非難の対象にまでなっています。自分や家族が生きるために働くことですら、業種によっては、許しがたい反社会的行為として咎めだてられる状況です。ほんの数か月前までは想像だにしなかったことです。   子供から高齢者まで、人間は概して、自分と異なる価値観や行動原理をもつ人のふるまいに眉をひそめあうことが大好きなもので、そのことを通して、「ふつうの人」と「そうでない人」のあいだの線引きを日頃から繰り返しています。非常事態ともなると、そのような傾向は先鋭化して現れます。緊急事態宣言が出されて以来、たびたび頭に浮かんだのは、もし自分が18歳のときに現在の状況に置かれていたらどういう行動をとっていただろう、ということです。磔(はりつけ)にされそうな内容なので、その答を記すことは慎みますが、イエス・キリストは赦してくださると信じます。   人間にとって、自由とは何を意味するのか。以前、関西在住の牧師さんと、『カラマーゾフの兄弟』でドストエフスキーが探求した神学的問いについて話をしたことがあります。「大審問官」の問題として知られる、「神のご計画」が内包する残酷さをめぐる議論です。その際、印象に残ったのが、牧師さんが口にした次のようなことばです。「神さまは人間を愛しているがために自由を与え、その自由には、愚行や罪をおかす自由までもが含まれているのだと思います」。それは「大審問官」をめぐる問いへの直接の答ではなかったのですが、人間の自由の価値について考える際、私はそのことばをしばしば思い返します。   現在、我々が置かれている困難な状況について、世の中では様々なことばが交わされています——自粛、自制、がまんの時、などなど。しかし、あまりにも明白すぎてつい忘れ去られがちなことのひとつは、ウィルス感染拡大とそれに伴う「自粛要請」のもと、我々が失ったのが、それまで享受してきた自由であるという事実です。コロナ禍をめぐる国内報道において「自由」の語が重みをもって用いられることは殆どないように見受けますが、この春、まちがいなく我々は多くの自由を失ったのであり、また、みずから進んで自由を手放すことを求められてもきたのです。   もちろん、このことは、自分自身や身近な人々の身体をまもるためにも、また公衆衛生の観点からもやむを得ないことです。しかし、それでもやはり、社会的存在としての我々がこの春に何を失ったかということは、しっかりと皆さんの意識に留めておいてもらいたいと思います。ものごとの本当の価値はえてして失われた時にはじめて分かるものですが、そのためには最低限、何が損なわれ、何が失われたかを認識している必要があるからです。   学生の皆さん、とりわけ新入生の方々には、皆で心をひとつにして自粛をがんばろうなどと、世間が是認する「ただしい答」を行儀よく繰り返すだけで満足するのではなく、この困難な状況のもとで、人間らしく生きることの意味や自由の価値について、それぞれのしかたで粘り強く考えを深めていってもらえればと思います。他人とけっして分かちあえない自分の魂の奥底にある孤立の感覚や、「皆」のうちから排除され、忘れ去られているかもしれない無数の人々の生——そういったものにも思いを至らせながら、自分自身のことばで世界を把握しようと努めてもらいたいと思います。大学とは、模範解答の先にあるものを時間をかけて探り出そうとする共同体であり、敬意とともに互いを認め合う自由な精神の交わりの場でもあります。   みどり豊かな山梨英和大学のキャンパスで皆さんと一緒に学ぶことできる日を心待ちにしています。     「魂を生き返らせてくださる主」 2020年5月11日(月) 山梨英和学院 理事長 小野興子   賛歌。ダビデの詩。 主は羊飼い、わたしには何も欠けることがない。 主はわたしを青草の原に休ませ 憩いの水のほとりに伴い 魂を生き返らせてくださる。 主は御名にふさわしく わたしを正しい道に導かれる。 死の影の谷を行くときも わたしは災いを恐れない。 あなたがわたしと共にいてくださる。 あなたの鞭、あなたの杖 それがわたしを力づける。 わたしを苦しめる者を前にしても あなたはわたしに食卓を整えてくださる。 わたしの頭に香油を注ぎ わたしの杯を溢れさせてくださる。 命のある限り 恵みと慈しみはいつもわたしを追う。 主の家にわたしは帰り 生涯、そこにとどまるであろう。(詩編23編)   はじめまして!私はこの4月、山梨英和学院の理事長に就任いたしました小野興子と申します。   この非常事態の中、新入生・在学生・院生の皆様と親しくお目に掛かる機会を与えられず残念でなりません。しかし、私自身はこの横根キャンパスは慣れ親しんだ大切なキャンパスです。非常勤講師として大学生の皆様と語り合い、チャペルでの祈りを共に捧げたことを今思い起こします。同時に学院理事会への参加のために、今も訪れている大切な場所でもあります。   私は山梨英和中学校・高等学校で学びました。英和中学校に入学し、初めて聖書と出会い、初めてこの詩編23編を暗唱いたしました。今朝の御言葉は、既にご存じの方も多いと思います。やさしく、美しいダビデの詩は、私のみならず仕事に連なる多くの方々の心の支えとなるみ言葉であると感じております。   私は英和高校卒業後、看護学を専攻しました。英和高校での恩師の勧めによるものでした。「いのちを守るためには高い学識が必要」と説いてくださったのです。卒業後は、母校付の聖路加国際病院での臨床体験を経て山梨に戻り、看護の教員となりました。病む方、老いてご自分の生活が困難になった方の生活を整え支援していくことを学生と共に考える日々が続きました。治療して健康を取り戻していく方は良いのですが、どのような治療によっても回復できない方々の苦悩が私の心を捉えました。それ以来私の専門分野は「終末期医療・ケア」となりました。命の限界を知りつつ生きる方々(がん末期、難病等)は人間が生きることへの様々な「問い」を投げかけてきます。しかし健康な私たちの慰めの言葉はそのような方々の慰めや癒しにはならないのです。   今、目には見えない最小のウイルスが、世界中の人々を脅威に陥れ、命の危機をも感じます。今だからこそ、命の限界を知りつつ生きる方々の毎日が少しだけ理解できるように思います。今、私達自身もどう生きたらよいのかを問いかけられているように思います。   本日、与えられました聖書のみ言葉 詩編23編はパレスチナの荒野を行く旅の厳しさと神の豊かな恵みと慰めを詩っています。荒野の厳しさの中を行く旅は決して楽なものではなかったはずです。そのような旅の中でも、神は豊かな安らぎと喜びを与えてくださるのです。いのちの限界に指しかかった方々も、そのことをケアする私達に気付かせてもくださるのです。   詩編23編について木田献一先生(※)は、「旅行く人間の信頼の詩」と題して「生きることの至福は主の家に帰り着き、いつまでもそこに留まること」、「これは生と死を超えた信仰者の喜び」と記しておられます。(木田献一『詩編をよむ』上P101)   医学や看護学においては身体的痛みを緩和することは比較的容易にできるようになっていますが、生死に伴う苦痛はそれを超えた神聖な人間としての備え(信仰)が必要であると気付くのです。   私は今も、できる限り病める方々の傍らに寄り添って立つ日々を続けたいと願っていますが、それは信仰者としての自らを問い続けると同時に生命の危機に直面している方々からも多くを学びたいと願うからでもあります。また、英和大学の学生の皆さんからは若さをいただきながら、歩みたいとも願うものです。   ※木田献一先生は山梨英和大学の元学長・院長であられました。     「孤立が成長を育むときになる」 2020年5月8日(金) 山梨英和大学 人間文化学部 教授 高橋寛子   だから、わたしたちは落胆しません。たとえわたしたちの「外なる人」は衰えていくとしても、わたしたちの「内なる人」は日々新たにされていきます。わたしたちの一時の軽い艱難は、比べものにならないほど重みのある永遠の栄光をもたらしてくれます。わたしたちは見えるものではなく、見えないものに目を注ぎます。見えるものは過ぎ去りますが、見えないものは永遠に存続するからです。(コリントの信徒への手紙二 4章16節〜18節)   いよいよ来週から授業が始まります。   新型コロナウイルスの影響で、入学式やオリエンテーションも十分行えないまま、とりわけ新入生のみなさんは、不安や落ち着かない気分の中にいるのかもしれません。在学生のみなさんも(私も)、ずっと家にいて人と会えない日々が続くと、パソコン画面を通して久しぶりに見る友人やゼミ仲間の顔に安堵し、少しおしゃべりをするそれだけのことが、かけがえのない愛おしい時間にも感じられるのではないでしょうか。   今、世界中が危機的な状況にあり、人間の存在が脅かされています。そして、普段ひとりでいることを恐れ、常に誰かと群れようとしてしまう私たちが、あたかもずっと防空豪にいるような生活を送っています。この困難によって、私たちはひとりでいることや「孤」でいることを否応なく求められている、と言うこともできるでしょう。   先日、ある知人から医療人類学者アーサー・クラインマンの最新エッセイ(4月初めにアメリカの新聞に掲載されたもの)が送られてきました。彼は高齢で、すでに家族を看取って独りで生活しています。破綻する世界にあって、人はどのように創造的に生きられるのかについて深く考えさせられたのですが、とりわけ「孤立が成長を育むときになる」という言葉が響きました。   ついつい忙しく動き回り、他者に目を向け、外的価値基準に合わせてしまう私たちが、今「孤」であること、内的価値基準に照合しつつ生きることを迫られているようにも感じます。それは案外「自分自身をケアすること」とも繋がっているのかもしれません。   この困難な事態を即座に解決することは誰にもできません。しかし「答えがない、わからない」問いに向き合うことが学問の出発点であり、本学で学ぶ基盤とも言えます。底知れない不安の中にあっても、目をそらさず戸惑うこと・価値観を揺らされること・見えないものに心を注ぎつつ「孤」の時間を過ごすこと、そこに深い意味を感じつつ、みなさんのかけがえのない新学期の始まりを共に喜びたいと思います。     「命の息、復活の息」  2020年5月4日(月) 山梨英和大学 宗教主任 洪 伊杓   地上にはまだ野の木も、野の草も生えていなかった。主なる神が地上に雨をお送りにならなかったからである。また土を耕す人もいなかった。しかし、水が地下から湧き出て、土の面をすべて潤した。主なる神は、土(アダマ)の塵で人(アダム)を形づくり、その鼻に命の息を吹き入れられた。人はこうして生きる者となった。(創世記2章5節~7節)   韓国ソウルの郊外の共同墓地に、ある日本人が葬られています。その人は山梨県北杜市出身の浅川巧です。墓碑には「韓国の山と民芸を愛し、韓国人の心中に生きた日本人、ここに韓国の土になる」と記されています。1910年、日本の植民地支配下に置かれた韓国はひどい収奪を経験しました。1914年に朝鮮総督府山林課林業試験場(現、大韓民国国立山林科学院)の職員として渡韓した浅川は、酷い伐木伐採で荒地と化した韓国の山地を見て誰よりも悲しみました。「朝鮮の現状を思ひ日本の前途を思ふと涙が出る。人類は迷つてゐる。何と云ふ恐ろしい迷の道だらう。」(1922年5月6日、『浅川巧 日記と書簡』68頁)との言葉からその思いがわかります。   森が破壊されると続けて川も土も汚染され、韓国の民衆は飢餓と伝染病に苦しみ、貴重な民芸作品もその命の息を失いかけていました。その中で浅川は、朝鮮白磁の保存と民衆の必需品である膳の芸術性を知らせるために努めました。朝鮮総督府が景福宮(朝鮮の王宮)を破壊する時には正門の光化門を守るために先頭に立ちました。何より彼は、故郷である山梨のような緑の山を韓国に残したい気持ちでいっぱいでした。日夜研究した結果、朝鮮の五葉松で露天養苗法を開発した彼は、韓国の山林緑化の基礎を築きました。命を失いかけた韓国の山、そして土から生じた民芸に「復活の息」を吹き入れたのです。そして1931年4月2日、急性肺炎で天に召され「韓国の土」となりました。   去る4月30日(木)、国連(UN)のグテーレス(A.Guterres)事務総長は新型コロナ収束後の「経済再生には気候変動対策が不可欠だ」と訴えました。(『日経新聞』2020年5月1日)人間の欲望による過度な生産と消費、競争と移動がもたらした全地球的な温暖化と砂漠化は、新型ウイルスの出現の原因であるという意見もあります。浅川巧は、カナダ人宣教師C.B.イビーが創立した日本メソヂスト甲府教会(現、日本基督教団甲府教会)で洗礼を受けた信仰者でもありました。のちに、この教会が中心となって山梨英和学院は設立されました。神が創造したこの世界と自然に対する敬愛に満ちた人でした。だからこそ、破壊され、受難を受けている朝鮮の山と土にも神がお与えになる命の息を吹き込ませたかったのでしょう。   イエス・キリストは復活した後、「息を吹きかけて」弟子たちに、「聖霊を受けなさい」と言われました。(ヨハネ20:22)ここでの「聖霊」はギリシャ語で「息」、「霊」、「風」という意味を持つプネウマ(Pneuma)です。もしかすると今のコロナ事態は、太初の神と復活したイエスが与えられた「命の息」と「聖なる霊」を喪失した状態なのかもしれません。その「息」を回復するために私たちは何をしなければならないのでしょうか。浅川巧が葬られている場の名は「忘憂里国立墓地」です。憂いを忘れる村…「神の息」を回復し、一日も早くこの試練を克服し憂いを忘れられる「復活の日」を迎えたいと祈ります。私たち山梨英和大学の共同体もその業に参加することを心から願います。   「命の息」を失った朝鮮の山河と民芸(白磁・膳など)に「復活の息」を吹き入れた浅川巧(1891-1931)     「希望の光」  2020年5月1日(金) 山梨英和大学 宗教主任補佐 大久保 絹   主の慈しみは決して絶えない。主の憐れみは決して尽きない。それは朝ごとに新たになる。あなたの真実はそれほど深い。(哀歌3章22~23節)   ウィリアム・メレル・ヴォーリズは、1905年24歳の時、県立商業高校の英語教師としてアメリカ・カンザス州から、滋賀県・近江八幡に来日しました。日本にキリスト教を伝えたいという強い使命感から、宗教や民族、文化の違いをこえた『近江ミッション』というグループを結成しました。また建築家、実業家としても、幅広い活動に力を注ぎ、隣人愛を実践しました。そうしたすべての活動において、ヴォーリズがもっとも大切にしたのは、いのちへのまなざしでした。それは、イエス・キリストが出会った人々に向けたまなざしと姿勢を模範とし、こどもや高齢者、その他社会的に弱さを感じている人たちへの配慮に溢れるものだったのではないでしょうか。   当時日本では結核が流行り、多くの人たちが苦しみと悲しみの中に置かれていました。命を脅かす病いに恐れを抱き、不安や嘆きに苛まれていたことでしょう。そのような中ヴォーリズは、結核を患っていた人たちが療養する「近江療養院」の開設を決め、治癒力が高められるような病舎の設計を手掛けました。その中に五葉館(希望館)というユニークな建物がありました。山梨英和の校章である楓の葉を思い浮かべてください。5つに分かれている楓の葉を間取りに反映させ、5つの病室が等間隔で扇状に配置され、どの部屋にも等しく新鮮な空気と光が入るように工夫が凝らされていました。心地よい空気の流れと部屋に降り注ぐ太陽の光によって、今日という日を生きる力が養われたのではないかと想像することができます。病いと向き合い、「なぜ私が」と不安に思い、「どうして私が」と嘆く只中、朝ごとに希望の光が注がれるように、そして建物を包み込むような神の愛が表されるように、五葉館の設計に祈りを込めたのかもしれません。   今日の聖書箇所である『哀歌』は、国家の滅亡という破局を経験した都エルサレムの住民が受けた苦しみと痛みをテーマとした詩文学です。苦難や哀しみが綴られていますが、神による救いの希望も祈られています。哀歌の詩人と同様、私たちは新型ウイルスにいいしれぬ恐れを抱き、一日の終わりには疲れを感じ、現状を嘆いています。しかし、朝ごとに、神の慈しみと憐れみが私たちを包み、神の計らいによって苦難が平安へと変えられるように祈りたいと思います。   山梨英和大学のキャンパスは、生きる力と希望が育まれるような建築物を日本各地に多く遺したヴォーリズの使命を受け継ぐ建築会社が設計しました。ここに集う私たちも、いのちを尊重するまなざしをもち、他者を理解し、共に生きる歩みを進めていきましょう。   Googleなどで下記の名称と住所を入力し、地図や航空写真をご覧ください。 ■ 五葉館 〒523-0806 滋賀県近江八幡市北之庄町     「恵みとしての奉仕」  2020年4月27日(月) 山梨英和大学 宗教主任 洪 伊杓   彼らは苦しみによる激しい試練を受けていたのに、その満ち満ちた喜びと極度の貧しさがあふれ出て、人に惜しまず施す豊かさとなったということです。(コリントの信徒への手紙二 8章2節)   20世紀初頭、シュヴァイツァー、ガンジーとともに現存する世界三大セイント(聖人)と呼ばれた賀川豊彦牧師という方がいました。彼は、神戸の貧民村に入って貧しい人々を救済しました。貧民村の最も大きな問題の一つは伝染病でした。肺結核、肺炎、コレラ、腸チフス、ジフテリアのような伝染病は、その村で周期的に発生しました。賀川牧師は自らの経験を描いた小説で「ペストの時でもそうであるが、すべての伝染病の時にそうである」(『太陽を射るもの』353頁)と、伝染病は時代を超えて貧しい人々に、より致命的で、経済的な問題でもあることを強調しました。今、21世紀の新型コロナ・ウィルスも同じです。初めは保健医療の問題に絞られますが、今は経済的な苦しさも大きく懸念されています。多数の人々と毎日接触しなければならない低所得の労働者、会社の経営が苦しくなり給料が減り失職する人々、感染予防と治療においても経済的な困難のため見逃されてしまう隣人たち。   賀川牧師は、そんな彼らの経済的な安定を図るために、生協や労働組合運動などを展開した方です。当時、賀川牧師も肺結核などの伝染病で苦労しました。1922年にはここ山梨県吉田町の泉田精一牧師宅(現、日本基督教団富士吉田教会)に療養のため訪れ、河口湖や富士山を眺めながら講演活動をしました。その時に蒔いた種が実を結んだのでしょうか。数年前、「賀川事業団雲柱社」から山梨県南アルプス市の認定NPO法人「フードバンク山梨」が「賀川豊彦賞」の第2回受賞団体として選定されました。(『神戸新聞』2017年11月2日)この団体は、「未使用のまま廃棄される食品を経済的に恵まれない人々に、手書きの手紙を添えて届けるこまやかな支援活動など」をボランティアや食品会社、行政や学校とともに展開して来ました。また本学も支援に携わっています。経済的困難が拡がる最近、私たち山梨のこのような活動は大きな慰めになります。このような活動への関心と応援が、非常事態だからこそ私たちにより求められるのではないでしょうか。   今日の聖書のみ言葉は、マケドニアの諸共同体に宛てた使徒パウロの証言です。苦しみと試練、特に経済的な患難の中でも、マケドニアの信者たちは喜びを失わず、互いを助けました。パウロは4節で、彼らは「聖なる者たちへの奉仕に加わる恵みにあずかりたいと、しきりに私たちに願い出たのでした」と付け加えました。貧しい隣人は「聖なる者たち」であり、彼らを助けることは「恵み」であると語っています。私たち山梨英和大学に連なる者たちもキリストに従ったマケドニアの人々のように、この厳しい時期にも互いを慰め、施しながら過ごしたいと思います。   1909年から始まった賀川豊彦牧師の貧民救済活動は国際的な関心と応援を受けた。 (写真:米国メソジスト教会出版局)     「シャローム、あなたがたに平和があるように」  2020年4月24日(金) 山梨英和大学 宗教主任補佐 大久保 絹   その日、すなわち週の初めの日の夕方、弟子たちはユダヤ人を恐れて、自分たちのいる家の戸に鍵をかけていた。そこへ、イエスが来て真ん中に立ち、「あなたがたに平和があるように」と言われた。そう言って、手とわき腹とをお見せになった。弟子たちは、主を見て喜んだ。イエスは重ねて言われた。「あなたがたに平和があるように。父がわたしをお遣わしになったように、わたしもあなたがたを遣わす。」そう言ってから、彼らに息を吹きかけて言われた。「聖霊を受けなさい。だれの罪でも、あなたがたが赦せば、その罪は赦される。だれの罪でも、あなたがたが赦さなければ、赦されないまま残る。」(ヨハネによる福音書20章19~23節)   イエスが十字架上で死んだ後、彼の弟子たちは、家の中に閉じこもり、息をひそめて過ごしていました。イエスを失った悲しみだけがその理由ではありません。イエスを助けられなかったという後悔の気持ち、見捨ててしまったという自己嫌悪、自分たちもイエスと同じように罪に問われるのではないかという恐怖心を抱いていたからです。そういう絶望的な状況にある弟子たちのもとにイエスは顕れ、「あなたがたに平和があるように」と言われました。   悲しみ嘆くこと、不安に陥ること、先が見えず苛立つことは、新型ウイルスの感染拡大以前にも、私たちの日常の中にありました。しかし、感染がますます広がり、家の中に閉じこもって過ごすことが続くと、閉塞感が募り、心がざわついてしまう経験も日々多くなっています。いままで毎日のように会っていた学生のみなさん、まだ会うこともできないでいる新入生のみなさんもそうした経験をしているのではないでしょうか。そう考えていた先週、友人がある動画を教えてくれましたので、みなさんにもご紹介します。ニューヨーク市にある教会の聖歌隊のこどもたちの歌です。ラテン語で歌われているこの曲は、『Dona Nobis Pacem(われらに平和を与えたまえ)』という言葉を重ねて繰り返します。感染者が多く、命が奪われる恐怖の中に暮らす人たちの切実な祈りであり、平和への賛美です。   聖書において平和(ヘブライ語で「シャローム」)とは、単に戦争のない状態を意味するのではなく、共同体の中に祝福が満ちて、その共同体を構成する人ひとりひとりが、またその人たちの間に調和が満ちた状態を示します。そして調和とは、それぞれが持っている善きものを、それぞれの仕方で生かしていくものではないでしょうか。   果たして新型ウイルスが蔓延する以前の社会は、こうした意味で平和だったといえるのでしょうか。これほどの感染の恐怖にさらされることはありませんでしたが、争い、貧困、病い、抑圧、搾取などによって苦しいと感じている人たちは存在し、調和が保たれている世界とはいえませんでした。こうした混沌から、世界中の人たちが新しくされ、調和の中に生きることを願うとき、私たちは、偏見や差別意識の中に閉じこもるのではなく、ウイルスに打ち勝った後には、感染以前の社会でも苦しみを感じながら生きていた人たちが、ひとりでも少なくなるような世界を目指し、ともに「Dona Nobis Pacem」と歌いたいと思います。   キリスト教精神を礎とする山梨英和大学は、神が与えるよりよい平和が未来に約束されているということに希望を託すことができる共同体です。緊張を強いられ、不安の只中にあっても、主の平和のうちに生かされていることに心を留め、落ち着いて過ごしたいと思います。   Church of the Transfiguration  The Little Church Choir 『Dona Nobis Pacem』     「偏見というウイルス」  2020年4月20日(月) 山梨英和大学 宗教主任 洪 伊杓   そこではもはや、ユダヤ人もギリシア人もなく、奴隷も自由な身分の者もなく、男も女もありません。あなたがたは皆、キリスト·イエスにおいて一つだからです。(ガラテヤの信徒への手紙3章28節)   満開の桜に包まれた山梨英和大学のキャンパスは本当に美しいです。しかし、今年は同時に寂しさもありました。会いたかった学生の皆さんと会うことができなかったからです。今は桜も散り、新芽が吹き始めましたが、皆さんとはいつ会えるでしょうか。   ここで、私の心を慰めてくれる一枚の写真を紹介します。山梨に来る前に働いていた京都府宮津市にある丹後宮津教会で見つけた80年前の写真です。この写真は太平洋戦争が勃発したころに撮られたもので、人種や民族、国家間に嫌悪(ヘイト)が溢れ、互いを「ウイルス」のように扱った悲しい時代でした。当時の日本は植民地民をまさに「ウイルス」のように眺めていましたが、丹後宮津教会の牧師であった達常豊(たつ・つねとよ)先生は、朝鮮半島から日本に渡って来た人々に対して何の隔たりもなく温かく接しました。誰でも教会に来た人を心から歓迎し、こう言いました。「キリスト教においては国や人種の区別はありません。全て主にある者は兄弟姉妹ですから遠慮することはありません。」そして彼らとともに桜の木の下で交流の時を過ごしました。それを見ていたある学校の先生が「自分には到底できないことだ」と伝えると、達牧師は即座に答えました。「キリスト者であるなら、誰でも同じようにするでしょう。キリストに従う者は皆、兄弟姉妹ですから。」(達常豊『自叙伝-我が伝道の生涯』、1972年、p.44から引用)   コロナ・ウイルスによる非常事態によって、人々はウイルスを見ず、感染した人々をウイルスのように見始めます。韓国人は中国人を、日本人は韓国人を、欧米人はアジア人を嫌悪し、むしろ「憎悪と偏見のウイルス」がより拡散します。130年前に建てられた山梨英和学院の「英和」という言葉はどのような意味を持つのでしょうか。英米と日本、さらに西洋と東洋が互いへの偏見や誤解を乗り越え、キリストの教えによって調和することです。コロナ・ウイルスによる非常事態はいつか必ず収まります。しかし、偏見や誤解、憎悪や差別のウイルスは人類史から消えたことがありません。困難なこの時期に、私たち山梨英和大学に連なる者たちは、コロナ・ウイルスはもちろん、より深刻な私たち人間の心に潜む「ヘイト・ウイルス」を退け、克服していく道を歩んでいきましょう。山梨英和がこのような学びと実践の場になるよう願います。朝鮮の人々を温かく招いた達牧師の丹後宮津教会のように、山梨英和大学の宗教主任として新たに招かれた外国人宣教師である私がこの大変な時期に皆さんにお伝えしたいメッセージとお願いです。   戦時下、朝鮮半島出身のキリスト者たちと交わる丹後宮津教会観桜会(後列右から二番目が達牧師)     「真理を求める大学として」  2020年4月17日(金) 山梨英和学院 院長 朴 憲郁   一行が歩いて行くうち、イエスはある村にお入りになった。すると、マルタという女が、イエスを家に迎え入れた。彼女にはマリアという姉妹がいた。マリアは主の足もとに座って、その話に聞き入っていた。マルタは、いろいろのもてなしのためせわしく立ち働いていたが、そばに近寄って言った。「主よ、わたしの姉妹はわたしだけにもてなしをさせていますが、何ともお思いになりませんか。手伝ってくれるようにおっしゃってください。」主はお答えになった。「マルタ、マルタ、あなたは多くのことに思い悩み、心を乱している。しかし、必要なことはただ一つだけである。マリアは良い方を選んだ。それを取り上げてはならない。」(ルカによる福音書10章38節~42節)   新学期が始まり、新入生と在学生の皆さんにとって、学問研究を中心とする山梨英和大学でのキャンパスライフが始まりました。大きな期待を胸に膨らませていることと思います。私はこの4月から山梨英和学院全体の院長に就きましたので、新入生と同じく不慣れな日々がしばらく続きます。ところが今は、不慣れどころか、国内外で突如襲っている新型ウィルス感染の猛威を前に、皆一様に不安と怖れに包まれ、入学式の取りやめと学年暦の大幅な変更を余儀なくされています。しかしこの難局を乗り越え、時が来るのを待って、それぞれ学業の備えをしたいと思います。   近代国家の成立と共に「大学」は国公立であれ私立であれ、伝統的に七自由学科(一般教養)を探求する「学問の自由」を砦としてきました。この自由における探求は「真理」を求めるためです。最終的に、物ではなく人が問題となるからであり、人間が生きる質を問うからです。ところが日本でも戦後、多くの新制大学ができましたが、入学式の時に学長が「諸君は大学に真理を求めて入ってきた」と言うことが、はばかられるようになってきました。ほとんどの学生は、真理とは関係なく卒業証書と卒後の就職に有利な各種の資格を得るために入学してきたからです。しかし、ある優れた経済学者はそのことを憂慮し、「経済学も含めてそもそも学問は真理を探究しなくなってきている」と言いました。アメリカでベスト・セラーになったアラン・ブルームは『アメリカン・マインドの終焉』(1987年。フランス語、ドイツ語、日本語訳あり)で、痛烈にこう批判しました:「人文科学の正門には、さまざまな文字と言葉でこう記されている。『真理は存在しない-少なくともここには-(” There is no truth-at least here-”)、412頁』」。   学問探求とそれが最終的に求める「真理」との関係を別の言葉で申しますと、通常の一般学科の授業と礼拝・聖書科/キリスト教学との密接な関係であり、それが大切な問題なのです。   本学のチャペルアワーの礼拝は、実にここで大きな意義と位置をもちます。皆さんが忙しくなる学業の合間に一瞬の安らぎを得、自分を振り返って瞑想する機会とするのも結構ですが、それに優って、神の前で問いかけられる根本的な問いをその都度受けとめつつ、目標をもって学問を研究し、技芸を磨く勇気と知恵を得る機会としてください。   本日の聖書箇所で、主イエスを嬉しく迎え入れた姉妹の振舞いが描かれています。忙しくおもてなしする姉マルタと、じっと座って主イエスのお話に耳を傾けて聴く妹のマリア、この二人は対照的な生き方を示しています。ここでマルタが単純に批判されているわけではありませんが、文字通り「忙」しさに追われて<心を亡くす>、つまり生活の中心を失くすことが起こります。主はそれを見抜いてマルタを慈しみ、こうおっしゃいました。「必要なことはただ一つだけである。マリアは良い方を選んだ。それを取り上げてはならない。」 この御言葉に従って、礼拝堂でのチャペルアワーを中心とするキャンパスライフを、皆さんもこれから享受してください。     「苦難(患難)から希望へ」  2020年4月13日(月) 山梨英和大学 学長 菊野一雄   学生の皆さん、教職員の皆さんへ   4月も第3週に入り、例年なら、授業やチャペルアワーなどが開始され、キャンパスは賑わいを見せているはずでした。しかし、私たちはいま、新型ウイルスの感染拡大を前にし、4月7日には「新型コロナ緊急事態宣言」や「文部科学省高等教育長の通達」などが出され、自宅待機を余儀なくされることになりました。   この未曽有の世界的危機の中で、山梨英和大学では、4月3日に「緊急クローズ」を宣言しましたが、私たちはこの危機を、本学の建学の精神である「敬神・愛人・自修」の中でも、特に「自修」を見つめ直す良い機会であると信じ、前向きに対応して行きましょう。   本来でしたら、火水木の朝に礼拝を伴った講話を聴き、賛美歌を歌うチャペルアワーが開催されるはずでしたが、今年は緊急事態宣言が解消されるまでの間は、月金にポータル(学生の皆さん)、メール(教職員の皆さん)、ホームページなどを通じて、このような形でメッセージをお送りすることになりました。   新約聖書「ローマの信徒への手紙」の5章3~4節に「わたしたちは知っているのです。苦難(患難)は忍耐を、忍耐は練達を、練達は希望を生むということを。」と書かれています。我々はこの未曽有の「苦難(患難)」の中で、神様のご加護のもとに、「希望」に向かって、手に手を取り合って前に進んで行きましょう。     「愛と信頼の距離」  2020年4月13日(月) 山梨英和大学 宗教主任 洪 伊杓   だが、あなたがたが散らされて自分の家に帰ってしまい、わたしをひとりきりにする時が来る。いや、既に来ている。しかし、わたしはひとりではない。父が、共にいてくださるからだ。これらのことを話したのは、あなたがたがわたしによって平和を得るためである。あなたがたには世で苦難がある。しかし、勇気を出しなさい。わたしは既に世に勝っている。(ヨハネによる福音書16章32節~33節)   はじめまして。この4月から山梨英和大学の宗教主任として赴任しました洪伊杓(ホン・イピョ)です。   キリスト教の暦では、ちょうど昨日の4月12日(日)は、イエス・キリストが十字架上での死から復活を果たしたことを記念する復活日(イースター)でした。今、新型コロナウィルスのため全世界が大混乱の中、「復活」の希望はどこにあるのでしょうか。3月末にここ山梨にやってきた私は、誰もいない部屋に一人座り、孤独であったイエスさまを思い浮かべました。しかし、イエスさまは決して独りではないとおっしゃいます。父である神様が共におられるので、苦難の中でも平安を得ることができると。わたしたちは今「社会的距離(social distancing)」をとりながらウィルスから互いを守ろうとしています。高速道路で安全な車間距離(safe distancing)が互いの命を守るように。わたしたちは今、一時的に危険な高速道路を走っているのかもしれません。   キリスト教において、礼拝はイエスさまの受難を共にする行為です。社会的距離をとるというつらい行いは、他者をウィルスとみなすならば、分断、孤立、敵対を表します。しかし、この苦しみが他者の命を守り、生かす行為とみなした時、苦難を克服し共同体を回復する尊いイエスさまの教えを実践することになるでしょう。心の持ち方が大切な時です。   レバノンのクリスチャン詩人であるハリール・ジブラーンは、「親しい者と共にいる時でも距離を置け。風をあなたがたの間で躍らせろ。…共に立て。しかし、近づきすぎるな。会堂の柱は離れ離れに立ち、樫と杉は互いの影の中で育つことはない。」と謳いました。この困難な時期に、わたしたちは互いに距離を置きますが、心はつながっています。これが「愛と信頼の距離」です。コロナウィルスは一時的に体に宿りますが、互いに信じあう人々が築く社会的免疫の連帯の前では無力です。わたしたちは勇気を出して、互いの「ワクチン」となり、自身と隣人を守りましょう。「世に勝っている」イエス・キリストが共にいらっしゃいます。         チャペルアワー担当表 2019年度第4クォーター 1月 担当者   7日(火) 高橋 一  新年礼拝 8日(水) 今村あづさ牧師 日本基督教団富士吉田教会 9日(木) 学生チャペル 14日(火) 学生チャペル   15日(水) 小野慈美牧師 捜真バプテスト教会 16日(木) 学生チャペル   21日(火) 高橋 一   22日(水) 学生チャペル 23日(木) 高橋 一 -->           パイプオルガン  山梨英和大学の学生にキリスト教音楽のすばらしさを実感してもらうため、2002年山梨英和学院後援会よりパイプオルガンが寄贈されました。 本学グリンバンクホール(110教室)には、フランスのマルク・ガルニエ社(1998年製作)のポジティフ・オルガン(移動可能な小型パイプオルガン)が設置されています。特に黒鍵は1万年前の氷河の中から掘り出されたナラ材(黒檀のような黒に変色しています)が使用されており、現在は入手、製造できない貴重な材質のものです。見た目は小さな木箱ですが、中には約200本のパイプが組み込まれています。調整や調律には多くの時間をかけ、丁寧に組み上げられたとても繊細なオルガンです。温かみがあり、それでいて透明感のある音の響きをぜひチャペルアワーの時間に感じてみて下さい。   《ガルニエ社製 ポジティフ・オルガンの概要》 概要 製作・組立 ガルニエ社(フランス) M.GARNIER(France) 設計・整音 M.Garnier 設置場所:グリンバンクホール 設置年 2002年 材質 本体部分 ナラ材 白鍵盤:柘植 黒鍵盤 ナラ材 装飾部分 菩提樹 金箔 仕様 仕様 Manual C-d3 1.Gedackt 8’ 2.Flote 4’ 3.Waldflote 2’ 4.Regal 8’ Mechanical action 4stop   --> MENU チャペルアワー チャペルメッセージ 行事・イベント 学生活動 キャンパス・施設 キャンパスマップ チャペルセンター 附属図書館 ラーニング・コモンズ 心理臨床センター 保健室 学生相談室 施設利用 アクセス --> 〒400-8555 山梨県甲府市横根町888TEL 055-223-6020(代)FAX 055-223-6025 個人情報保護方針 山梨英和学院 山梨英和中学・高校 山梨英和こども園 採用情報 サイトマップ お問い合せ Copyright(c)山梨英和大学 All Rights Reserved.

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