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新今別府地区は西側の新別府地区と海側の今別府地区という2つの地区で構成されている。行政区域(自治会)は1つにまとまっているが、地区行事(しきたり)の違いからその運営を行う成年会は分かれたままとのこと。もともとナシの栽培が盛んであったが、台風の影響などからブドウの栽培への転換が進んだという。  この調査は、2023/9/22(金)に行った。なお、調査は前回、篠別府地区でご紹介いただいたY氏にアポイントを取り、ご自宅に伺って実施した。 新今別府地区における年中行事  これまで同様、『都農町史』の伝承をまとめた表をもとに伝承されている年中行事についてヒアリング調査を進めた。以下は今回分かった福原尾地区の行事についてである。 町史では駄祈祷のみという記録となっていたが、実際には以下の6つの行事が残っていた。なお、今回の調査ではその内容についてはあまり伺うことができなかった。 【伝統行事1】田植え・さのぼり  田植え後に飲み会を行うという内容で、現在も行われているとのこと。 【伝統行事2】盂蘭盆会(盆)  8月13日に実施され、新盆を一軒一軒回っていたがコロナの影響もあり公民館でやぐらを作り集まってやるようになったという。この地区の盆踊りには太鼓と三味線、囃子があり、誇りを持たれていた。 【伝統行事3】もぐらたたき  現在の親世代までしていたので実施自体は可能だが、78戸のうち子供が4,5人なのでやれていないという。 【伝統行事4】駄祈祷  水神関連の祭で神事を行うというのが一般的だが、田植え・さのぼりと一緒に実施されているとのこと。 【伝統行事5】一の宮夏祭り  都農神社に果物を奉納している関係もあり、2年に一回、神輿が地区を回るとのこと。町史によると、御神興が浜に渡御する儀式があり、「浜下り」ともいう。 【伝統行事6】一の宮冬祭り  都農神社の冬祭りに参加しているという。町史によると、従来の申酒杯祭を改めた大神事であり、12月四日の夕刻の祭典に引き続き終夜神楽の奉納がある。私祭出氏の繁昌と家内安全を祈る中祭である。現在は、4日が夕祭、5日が本祭となっている。 まとめ  今回の調査を通して、新今別府地区では駄祈祷以外にも多くの行事が行われており、その多くは農業に関するものだと分かった。また、行事がどのように行われていたか語られるY氏の様子から、地域への愛着を感じることができた。 参考文献 ・都農町(1998)『都農町史』 都農町における伝承調査記録 篠別府地区 都農町 篠別府地区   篠別府地区は、都農町の最南端に位置する。 定期的に地区住民総出での草刈りが行われ、道路の端の草などもきれいに整っているところが印象的な地区であった。高齢者が多く敬老会も月一で集まるほど活発であるが、70歳を超えても入らない人も多いという。また、かつて盛んだったブドウ農家も高齢化や高級品種の栽培に必要なコストの関係から十数件から数件に減ったことも伺った。  この調査は、2023/9/16(土)に行った。なお、調査は前回、福原尾地区でご紹介いただいたK氏にアポイントを取り、ご自宅に伺って実施した。 写真1:都農町篠別府地区 上名貫神社(かみなぬきじんじゃ)瀬川ゼミ―定期的な住民総出での草刈りの影響か整備が行き届いている印象を持った。 篠別府地区における年中行事  これまでと同様、 『都農町史』の伝承をまとめた表をもとに伝承されている年中行事についてヒアリング調査を進めた。以下は今回分かった篠別府地区の行事についてである。 町史では山褒め、モロムギ焼、田植え・さのぼり、十五夜、駄祈祷、棒踊りの6つと記録されていたが、実際には以下の7つの行事が存在した。 【伝統行事1】もぐらたたき  竹の先に藁を巻き、子供たちが十五夜に家々を回り庭先で「となりのせっちんもっくりかえせ」と言いながら(昔は土ばかりだった)「せっちん(地面)」をたたき、家の人がお菓子をあげていたが、子供の数が減少したこともあってか最近は行われていないという。なお、川南の名貫ではまだやっているのではないかということもおっしゃっていた。もぐらたたきは25年ほど前までしており、子供の数も多く敬老会が活発だったことで成り立っていたと語ってくださった。 【伝統行事2】田植え・さのぼり  昔は各班持ち回りで班員の家族も含めて飲み食いを行っていたが、現在は公民館で行っているという。一之宮神社の宮司も務める上名貫神社の宮司による御祓いもあり、「各班で神事が終わると各家持ち回りで料理を構えて、家族やらみんなと飲み食いをしよった」と語られた。 【伝統行事3】盂蘭盆会(盆)  先祖の供養のために迎え火・送り火をしており、13日の夕方に墓参り、15日の夕方に送るという。なお福原尾同様、新盆には盆踊りが奉納されるが、ここでは公民館で役員が用意するとのことだが、歌い手や太鼓たたきが70代後半や80代で構成されており今後の不安についての声も上がっている。また、55,6軒の中に小学生が7人(南小に通っている)という現状であり、登校班が3,4班であった時代からすると少子化も顕著に表れている。 【伝統行事4】棒踊り  南小の運動会において4,5年生くらいの団技となっている。地区行事としては12月13日に上名貫神社の冬祭りで奉納され、ここでの参加者は20代~70代の地区住民(大人)が参加する。興りとしては人が多く喧嘩も多かった時代のリーダーが他にエネルギーを持っていくために秋月藩から学んできたという。なお、行事が外に漏れないよう長男のみの参加という時代もあった。また、一度途絶えたものの、35年ほど前に復活したとのことだが、コロナにより一時期止まっていた影響もあってか若者は消極的だという。 【伝統行事5】十五夜  同時に行われていた綱引きも今はなく30年ほど前に途絶えたのではとのことであった。また、綱は毎年同じものを使っており、現在も公民館に保存されているという。綱は、敬老会の方々が編んでいた。 【伝統行事6】駄祈祷  この地区では駄祈念祭と呼ばれており、現在も行われているが小学校の運動会と被った場合は一週延期するという。内容としては午後2時くらいから神事(宮司による御祓い)を行った後に地区住民で飲み会をするものであったが、就農者が減った影響もあってか14,5人ほどしか集まらないとのことであった。また、駄祈祷でも冬祭りでもコバンが9人(9班あり各一名ずつ)ほどおり、午前中に供え物を買うという。 【伝統行事7】一之宮冬祭り  一之宮神社の冬祭りと町の文化祭に2000年代頃まで棒踊りを奉納していたことも教えてくださった。なお、地区で12月13日に冬祭りが行われ、宮司が神楽(舞い手は一之宮神社で舞う町内の子供たち)を招いていたという。神社には舞う場所も用意されているとのこと。夏祭りは無いこともここで確認できた。 まとめ  今回の調査では、篠別府地区では行事の中心に子供や高齢者が深く関わることで行事が伝承されてきたことが分かった。また、草刈りなどで住民同士の繋がりがより強いものになっているのではないかと感じた。 参考文献 ・都農町(1998)『都農町史』 都農町における伝承調査記録 福原尾地区 都農町 福原尾地区  福原尾地区は、都農町の東側、漁村である下浜地区に面しており、就農者が多い地区で水田やキュウリに加えパイロット事業によって広がったミカンやブドウなどが栽培されていたが現在ブドウ農家はいないとのこと。田植えシーズンには上方と下方で調整して地区内で作業をサポートし合っていたという。隣り合う下浜地区とは漁師から魚を買うという関係であるとのことだった。  この調査は、2023/9/12(火)に行った。なお、調査は前回の立野地区でご紹介いただいたI氏にアポイントを取り、ご自宅に伺って実施した。 写真1 :都農町福原尾地区 水神祭に関わる場所の一つ、去飛の駅井戸(こひのえきいど)瀬川ゼミ撮影 福原尾地区における年中行事  前回の調査同様、『都農町史』の伝承をまとめた表をもとに伝承されている年中行事について、ヒアリング調査を進めた。これには現行の行事も中断している行事もふくんでいる。町史によると、潮汲み、田植え・さのぼり、盂蘭盆会(盆)、十五夜、駄祈祷の5つとなっていたが実際には以下の通り、その倍の数の行事が存在していた。 【伝統行事1】潮汲み  現在はやっておらず、1970年代頃までやっていたという。福原尾では内容を深堀できなかったが、他の地区では祭りの神輿が通る前に海水を汲んできて撒くことで道を清めるという話を伺った。 【伝統行事2】田植え・さのぼり  以前は農協も含めた関係者全員での飲みの場として田植え後に行われていた。現在は田植えをした人のみでの実施となっており、田植えの終わる3,4月を避けて5,6月に公民館で行われているという。 【伝統行事3】盂蘭盆会(盆)  先祖を供養するための行事として主に迎え火・送り火を行っており、新盆のお宅には小中学生による太鼓と踊りが奉納されていた。コロナ禍と少子化の影響で現在踊りなどは行っていないという。 【伝統行事4】荒神祭り(夏祭り)  8月1日に夏祭りを行っており、元は3日間であった。農作業などもあり1~3日休むことは負担になるので、神輿、神事、なおらい(反省会)をして終わるという。 【伝統行事5】二百十日  人が集まらなくなり5~6年ほど前にやらなくなったという。内容は飲み方のみだった。別の地区の話では、台風の来る時期だったことから雨乞いと反対の意味を持つのではないかという話を伺った。 【伝統行事6】十五夜  1970年代頃まではしていたという。縁(縁側か?)にすすきと団子を飾っており、子供たちが家々を回ってお菓子を貰っていたが、お菓子が珍しくなくなりそのようなこともしなくなったとのこと。 ※括弧内は調査者による 【伝統行事7】駄祈祷(水神祭)  水神様に関する行事である。9月の第一日曜には準備のために掃除を行うという。行事は旧暦の夏(例年は新暦10月中旬から下旬ごろ)、午前中に行っているという。コバン(小番、行事の担当)が刺身を出したり、竹を切って御幣をつくる。コロナ禍の影響で全戸でおこなうのではなく役員のみになったとのことであった。 【伝統行事8】冬祭り  都農神社の冬祭りと合わせて12月5日に行われる。神楽も行われていたという。以前は10日に行われていたが川南のバンショという地区と被り集客しにくいことから変わったとのことであった。 【伝統行事9】御大師様  上方・西方・下方の3地区に分かれている福原尾地区では、個人の家で飲む触れ合いの機会として持ち回りの開催となっていた。現在は下方のみが行っている可能性があるとのこと。ツモト(津元、飲み会をする宿)を記録した帳面『大師登小』(読み方不詳)を先端を割った竹に挟んだものをオダイシサンと呼ぶ。帳面も竹にさした状態のもの両者をそう呼ぶ。次の年のツモトに引き継ぐ「通渡し」という次第もあった。仲立ちを仲介役として今年度、次年度のツモトが酒を酌み交わす。仲立ちが「味見をします」などの言葉をかけて飲んだ後に、今年度のツモトに盃を渡し、その人が飲むと仲立ちに返し、もう一度仲立ちが飲み、次年度のツモトへ渡す。回数は仲立ちの裁量にまかされており、たくさん飲むために何度も酌み交わすこともあるが、その際にかける言葉を面白おかしくして盛り上げていたという。最後に今年のツモトが次のツモトに「よろしくお願いします」と言いながら、オダイシサンを背にさすことで酔っ払っても落とさないようにという意味を持っていたという。行事の運営については、30年ほど前は就農者が多く昼間に人もいたのでコバン(小番、祭りの担当)が経費を一人5~600円ほど回収して、小番座と呼ばれる反省会で飲んでいたが、地区外に働きに出る人々が増えたことから一括で集める自治会費を使うようになったとのこと。コバンがなますと刺身を酒の肴として用意していた。また、参加者が農家であったため各自キュウリなどを持ち寄っていた。コバンに関しては役員とは別であり、正月(12月)に交代する。ここでも「通渡しの儀」があった。 写真2:都農町福原尾地区 見せて頂いたオダイシサン 【伝統行事10】I家の祭  旧暦の11月24日に付近の家8軒が神事を行った後になおらいを行っていたが、高齢化の影響でなおらいはなくなったという。1軒は妻のみ、80代が2軒、70代が1軒、75歳が2軒、1軒が亡くなり、1軒が50代である。1日休む負担が大きいと語ってくださった。 まとめ  今回の調査を通して、福原尾地区では田植えが盛んであった影響か、水に関わる行事が多かったこと、また行事が人々を繋ぐ場として機能していたことが分かった。同時に高齢化や就農者の減少の中でこうした場が縮小している現状を知ることができた。 参考文献 ・都農町(1998)『都農町史』 都農町における伝承調査記録 立野地区 都農町 立野地区  立野地区は、都農町の西側、尾鈴山のふもとに位置する山側の地区である。元は林業が盛んでその関係からか、姓に黒木とつく方が地区の多くを占めている。現在は、農家の方が多く、水に恵まれているためコメを栽培する方はもちろん、戦後開発の影響でミカンやウメなども栽培しているようで、2月中旬になると立野地区の梅園には、花見ウォーキングを楽しむ人たちが訪れる。栽培される梅は「鈴川の梅」という名前で売り出しており、隣接する地区である轟地区と共同で栽培に取り組んでいる。  この調査は、2023/9/3(日)に行った。 写真1:都農町立野地区 大山祇神社(おおやまづみじんじゃ)瀬川ゼミ撮影 立野地区における年中行事  ヒアリング調査を始めるにあたり、まず、先行研究の1つとして『都農町史』の「伝統」の項目の中から、都農町の各地区で行われている、あるいは行われていた年中行事を抽出し、表にまとめた。これはその表である。 表1-1:都農町における年中行事の実施地区一覧 都農町(1998)都農町史より作成 表1-2:都農町における年中行事の実施地区一覧(続き) 都農町(1998)都農町史より作成  表を見ると、『都農町史』の「伝統」の項目の中で、まとめられていた立野地区の年中行事として、神楽だけしか取り上げられていなかった。しかし、実際に立野地区にヒアリング調査に伺ってみると神楽以外にも様々な年中行事が行われているあるいは行われていたことが分かった。以下は、その年中行事と内容である。 今回明らかになった立野地区の年中行事 【伝統行事1】モグラたたき   モグラたたきは、竹の先に藁を巻き,子供たちが地面をたたきながら地区内を見回る行事であり、 立野地区においてモグラたたきは現在行われておらず、約5~60年前までは行っていたようである。 【伝統行事2】さのぼり  さのぼりは田植えが終わり、その労をねぎらい豊作を祈る農作業に関わる行事のことであり、飲み会でもある。立野地区では、田植えの班ごとに行っている。昔はこの班ごとに田植えから稲刈りまでを行っていたそうだが、現在は機械化などの影響もあり、個人でするようになったようだ。 【伝統行事3】二百十日  二百十日は毎年9月1日に開催されるが、うるう年の時にかぎり8月31日に開催する。おそらく農業や林業が盛んだったこともあり、台風などの自然災害が来ないようにと祈る機会だったのではないかとのことであった。もちろん地区の住民の楽しみ(飲み会)としても機能している。 【伝統行事4】十五夜  立野地区では、旧暦の9月29日に開催しているようだ。各地区によって十五夜の内容が異なっており、立野地区でのヒアリングでは聞くことが出なかったが、各家から藁を集めて1本の綱を綯う。その綱を用いて地区の子供たちが綱引きをするといったことをする。また、相撲などもしていた地区もあるようだ。 【伝統行事5】駄祈祷・水神祭  立野地区のダキトウ(駄祈祷)は、旧暦の11月1日に開催される。水神祭とも呼ばれ、他にもダキネンやダキトとも呼ぶ地区もある。地区内の水源地や井戸など水に関わる場所で神事をする。 【伝統行事6】大山祇神社(おおやまづみじんじゃ)祭り  6月17日と12月17日に開催されていたが、現在では、仕事の都合もあり開催日付近の日曜日に行われているようである。神楽も奉納されていたが、7~8年前に奉納することはなくなった。なお、神楽は都農神社や神門神社、比木神社などに依頼し、奉納していた。午後3時ぐらいから夜中の12時ぐらいまで祭りがあったという。現在では、14:00から神事が始まり、神事が終わると地域の公民館でナオライ(直会)が行われる。 次回の調査  次回の調査記録は、都農町福原尾地区である。この地区は、『都農町史』の「伝統」の項目の中に多くの伝統行事が記されており、訪問するべき場所として名前が挙がっていた。場所は都農町の海側になる。  本研究は、行く先々の方に年中行事や伝承などに詳しい方を紹介してもらい、ヒアリングを続けている。どこまでそのつながりが続くかは分からないが、出来る限り多くの人から貴重なお話を聞ければと思っている。 写真2:都農町立野地区 ヒアリング調査の様子 参考文献 ・都農町(1998)『都農町史』 ・都農町 総合政策課 (2012)『 都農 つなぐ思い伝える絆 』 宮崎県立博物館民家園にある田の神像 宮崎市にある県立博物館民家園にある田の神像です。この田の神像は、小林市大字真方の新田地区にある田の神像の複製で、神官型では県内最古の田の神像とされています。神官型の田の神像は享和元年(1716)に始まった新燃岳の大噴火で大きな被害を蒙り、苦しんでいる農民が山の神の怒りを鎮めるために造られたといわれています。田の神像は鹿児島県と宮崎県にありますが、神官型については宮崎県が神官型の発祥とされていて、地域では化粧を施され祠の中で祀られています。 宮崎市福島町字亀の甲にある田の神像 宮崎市福島町字亀の甲 愛宕山の西端にある田の神像です。シキをかぶり右手にシャモジ、左手に茶碗をもって、背にワラヅト(ワラを束ねて中に飯などの物を包んだもの)を巻き、素足で座ったふくよかな姿の像高95㎝の農民像です。台座に「昭和八年(1933)一月二日建設」と彫られています。農道拡張記念碑と並んで建てられています。田んぼが少なくなり都市化した街並みを高台から見下ろしています。 宮崎市池内町にある田の神像 宮崎市池内町の奈古神社の西方にある田圃の中の田の神像です。シキをかぶり長袖上衣に長袴姿で右手にシャモジ、右手に短い棒を持ち中腰姿の高岡型の農民像です。台座に「昭和十一年(1936)正月十一日 奉納田神 拾五年水廻勤務記念 当年六十二歳 個人名」と刻字してあります。「ミズマワリ(水廻)」とは、用水路の水がすべての田んぼに均等に行き渡るように、田んぼごとの給水口の調整管理をする仕事です。今のように豊富な水利がない時代なので、気の抜けない大変重要な仕事だったと思います。 宮崎市大字有田にある田の神像 2基 宮崎市大字有田の白髭神社の山腹にある田の神像です。シキをかぶり右手に短い棒、左手にシャモジを持った像高60㎝の高岡型の農民像ですが、うっそうとした木々に覆われて苔が石像をおおっています。明治十四年(1881)建立の文字があるとのことですが、現況では確認できません。 宮崎市大字有田の高峯墓地入り口付近にある田の神像です。木造の社に安置してある高さ36㎝の烏帽子をかぶり狩衣姿で両手を膝上で組んで座った神官型の田の神像です。横に耕地整理の記念碑や石碑が並んでいます。 宮崎市大塚町にある田の神像の3基です。   宮崎市大塚町字八所の大塚台団地公園につながる散歩道の入り口にある田の神像です。石の祠の中にある高さ46㎝の石板に浮き彫りされた、笠をかぶり両手に何かを持った立像ですが、やわらかい石材の為に崩壊が激しいためよくわかりません。石板に「大田神」と彫られています。  宮崎市大塚町字城の下にある私有地の中にある田の神像です。像高60㎝ほどの笑顔いっぱいの高岡型の農民像です。台座に「大正十五年旧十月十六日建立  屋敷 仏像院 両講中」と刻まれています。昔は田んぼが広がっていて2つの講中でお祀りしていたが、次第に田がなくなり農家がなくなり、今は自分だけが祀っているとの話です。 宮崎市大塚町大塚南公民館にある高岡型農民型の田の神像です。当初は、宝塚ニュータウンのできる前の田んぼの中にあったが、造成に伴い、現在の藤本病院の敷地に移されていた。しかし当初の区域から離れているため、本来の区域内である大塚南公民館に移動されたとの話であった。 サイトマップ お問合せ 宮崎大学地域資源創成学研究科附属地域資源情報活用センター 宮崎県宮崎市学園木花台西1-1 Copyright © University of Miyazaki. 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